【分裂騒動】山口組と芸能界を育てたカリスマ組長の実像

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美空ひばりの後見人でもあった田岡一雄
美空ひばりの後見人でもあった田岡一雄

 日本最大の暴力団、「山口組」分裂の激震が収まらない。

「山口組には内紛、離脱、分裂等を繰り返して成長してきたその過程の中で、有能な多くの人材を失ってきた歴史の反省と学習があった。人は誰も学習能力がある。彼らはその体験者にもかかわらず、学習能力と反省が無いのかと思うと残念でならない」

 とは、山口組の司忍・六代目組長が、定例会で配布した手紙の一節。山口組を割って出ていった有力団体幹部ら(注1)を一刀両断してみせた。

 離脱した14団体側も黙ってはいない。新組織<神戸山口組>を名乗り、組長に就任した井上邦雄・山健組組長の名前で、「歴代親分の意を遵守するため」の離脱であると挨拶状を配布。いわゆる<山菱(やまびし)>と呼ばれる山口組の代紋も、<山口組>の名称も堂々と使っているため、山口組の反発は必至。取り締まる警察も含めて、日本全土で日増しに緊張が高まっている。

 それもこれも、山口組の大きさゆえ。2014年末時点で構成員数約13,100人に準構成員数が約14,600人。合計およそ27,700人という数は全暴力団構成員・準構成員数の約43%を占め、44都道府県に系列組織を置く日本最大にして最強の組だったからだ。

 …なぜ山口組はここまで巨大化できたのか?

「日本の首領」三代目・田岡一雄

 山口組は、1915年(大正4年)に初代組長・山口春吉が沖仲仕を集めて神戸を本拠にして結成。抗争の末に神戸中央卸売市場の利権を獲得した二代目・山口登の死後、組長不在の状態だった。そこへ推されたのが、終戦後に暴徒化した第三国人に対抗し、自警団を結成していた田岡一雄。そして1946年、のちに<山口組中興の祖>とも<日本の首領(ドン)>とも呼ばれ、その生き方が小説や映画にもなる伝説の三代目が誕生した。

 田岡の特筆すべき点は、芸能・エンタテインメントの興行を活用したこと。 実質、山口組が運営する神戸芸能社の最大の武器が、少女歌手としてデビューすると、すぐに接触した美空ひばり。歌謡界の女王となる彼女は、結婚・離婚(注2)の時も後見人として頼りきるほど、田岡への信頼が厚かった。さらに神戸芸能社は、鶴田浩二、里見浩太朗、山城新伍、田端義夫ら、当時の人気者を多く配下に抱えていた。

 また今では考えられない人気を誇ったプロレス興行へも進出。力道山の死後、田岡は日本プロレス協会副会長(注3)として、パンフレットで堂々と開催挨拶をするなど影響力を見せつけた。

 ——こうした芸能・エンタメや合法的な仕事(注4)と、従来のヤクザと同じ非合法の稼業。表と裏、飴とムチ。両方を巧みに使い分け、あるいは併用して、襲名時33名だった山口組を、1980年までに11,800人を超える組織に育てあげたのが三代目・田岡一雄だった。むろんジャイアント馬場や美空ひばりが活躍する華やかな舞台の裏では、組の武闘派たちが各地の組織と血で血を洗う抗争を勝ち抜いたからこそ、なのだが。

 ひと昔前になるが、筆者は田岡一雄の長女、田岡由伎さんに話を聞いたことがある。

「周りはいろいろ言いますけど、私にとっては普通の優しい父でした。それに現在の田岡家は、山口組とは関係ないんですよ」

 山口組のある一時期をことさらに美化、理想化するつもりはない。が、港湾の労働環境を整備したり、麻薬追放運動に熱心だった三代目を語る多くの人間が、畏敬の念を隠さない。任侠とは畢竟、人間力なのだろう。

(注1)離脱した幹部…山口組から5団体が絶縁、8団体が破門された。
(注2)美空ひばりの結婚…相手は小林旭。「三代目に頼まれたら…」と、旭は後に語っている。
(注3)日本プロレス協会副会長…会長は右翼の大物、児玉誉士夫。
(注4)合法的な仕事…三代目は子分に「合法的な仕事を持て」と推奨していた。

著者プロフィール

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コンテンツプロデューサー

田中ねぃ

東京都出身。早大卒後、新潮社入社。『週刊新潮』『FOCUS』を経て、現在『コミック&プロデュース事業部』部長。本業以外にプロレス、アニメ、アイドル、特撮、TV、映画などサブカルチャーに造詣が深い。Daily News Onlineではニュースとカルチャーを絡めたコラムを連載中。愛称は田中‟ダスティ”ねぃ

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