小池百合子 逆境ハネ返し「突破の女王」!!(9)CMが支えたイメージ戦略 (1/2ページ)

アサ芸プラス

小池百合子 逆境ハネ返し「突破の女王」!!(9)CMが支えたイメージ戦略

 それから2年後の97年(平成9年)12月、再び新進党の党首選が行われた。

 小沢230票、対立候補の鹿野道彦が182票であった。ところが小沢は、党首に選ばれたとたん、解党に踏み切った。

 小池はさすがに驚いた。

〈これは、あまりにも唐突すぎないか〉

 解党の結果、非自民勢力の結集を謳った新進党はわずか3年で四分五裂し、小池は小沢が新たに結党した自由党に参加することにした。

「政党は安全保障政策で一枚岩でなければならない」という小沢の説明に、小池は同意できた。それが自由党を選んだ小池の最大の理由だ。結党時に集まった仲間の安保観も、新進党時代と比べれば、一致点が多く見られた。

 98年(平成10年)6月25日、参院選が公示された。自由党は、選挙区に10人、比例区に12人の候補者を擁立した。

 が、自由党には組織がなく、運動員も少なかった。

 そこで小池は、テレビコマーシャルを企画した。制作会社と何十回となく議論した上で、3タイプのコマーシャルを制作、その上で、選対委員長の中西啓介に言った。

「みんなに相談したら、ああでもない、こうでもないという議論になってしまう。ですから選対委員長、あなたの独断と偏見でいいから決めてください」

 中西は判断した。

「よし、これで行こう」

 小池は、いつも考えていた。

〈日本が今求めていることばかり思っている小沢さんが、どうして国会で嫌われるんだろうか〉

 小沢や自由党で考えていることと、一般市民が考えていること、それが重なるポイントは必ずある。そこを敏感に読み取り、きっちりと出会わせる。それが広報の仕事だと考えていた。小池はどこに行く時でも、常に小沢をPRするにはどのようにすればいいか、考えていた。

 小池の脳裏に小沢一郎のポスター案が、ふいに閃いた。さっそく、そのコピーをざっと書いてみた。

「小池百合子 逆境ハネ返し「突破の女王」!!(9)CMが支えたイメージ戦略」のページです。デイリーニュースオンラインは、自由党週刊アサヒ芸能 2016年 12/1号大下英治小池百合子小沢一郎社会などの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る

人気キーワード一覧