【プロ野球】あわや初登板ノーヒットノーランのルーキー・加藤拓也。慶応義塾大出身の先輩名投手に続けるか!? (1/2ページ)

デイリーニュースオンライン

慶応義塾大出身の先輩名投手に続けるか!?
慶応義塾大出身の先輩名投手に続けるか!?

 4月7日の広島対ヤクルト。プロ初先発となった広島のドラフト1位ルーキー・加藤拓也が初勝利を挙げた。序盤から好投を見せる加藤はヤクルト打線を封じ込め、8回が終わって被安打ゼロ。「プロ初先発でノーヒットノーランを達成するのでは……」と、球場内は次第に異様な雰囲気に包まれた。

 しかし9回、バレンティンの安打でノーヒットノーランが絶たれ、続く雄平にタイムリーを浴び、降板。とはいえ、大記録達成とはいかなかったものの、今季の活躍を広島ファンに大きく期待させる快投だった。

 加藤は慶應義塾大時代、通算24勝を挙げ、エースとして活躍。神宮球場のマウンドで躍動した。その慶應義塾大からプロに進んだ、加藤の先輩たちにスポットを当ててみよう。

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■「悲運のエース」藤田元司

 愛媛の西条高から慶應義塾大に進み、大学時代は通算31勝を挙げた藤田元司(元巨人)。日本石油を経て、大学の先輩・水原茂(当時の登録名は水原円裕)が監督を務める巨人に入団すると、1年目の1957年に17勝で新人王を獲得する。さらに1958年に29勝、1959年には27勝と先発、リリーフでフル回転し、リーグ優勝に大きく貢献。2年連続セ・リーグMVPを受賞するなど巨人のエースとして活躍する。

 しかし、入団3年間で73勝を挙げた代償は大きく、右肩を痛め、1960年以降は勝利数が激減する。それでも1962年から2年連続2ケタ勝利とエースの意地を見せたが、1964年限りで現役引退。8年間の現役生活だった。

 日本シリーズでは西鉄と対戦した1958年、南海と対戦した1959年とともに力投を見せるも日本一は叶わず、活躍のわりに1度の優勝にとどまった大学時代同様「悲運のエース」と呼ばれた。

 1981年には長嶋茂雄監督の後を受け巨人の監督に。監督初年度にいきなり日本一となると、1983年にもリーグ優勝し、後任の王貞治監督にバトンタッチ。1988年限りで王監督が辞任すると、再び監督に就任。斎藤雅樹、桑田真澄、槇原寛己の先発三本柱を中心に、1989年には再び日本一となる。監督在任7年間で日本一2回、リーグ優勝4回と監督としても結果を残した。

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