【プロ野球】常勝・阪急の上田利治、寝技師・根本陸夫、つなぎ役・阿南準郎ら、無名選手から監督で開花した名将たち (1/2ページ)

デイリーニュースオンライン

無名選手から監督で開花した名将たち
無名選手から監督で開花した名将たち

 7月1日、阪急、オリックス、日本ハムで監督を歴任した上田利治氏が亡くなった。近年でも雑誌などのインタビューで元気な姿を見せていただけに、突然の訃報に関係者とファンは驚いた。

 上田氏といえば阪急監督時代には日本シリーズ3連覇を成し遂げ、オリックス時代には「ブルーサンダー打線」、日本ハム時代には「ビッグバン打線」と強力打線を形成。「ええで、ええで」と選手を褒めて乗せる「ええで節」は氏の代名詞にもなった。

 また、上田氏で忘れてはならないのは、現役時代は無名ながらも指導者として成功した点だ。

 関西大時代は後の阪神のエース・村山実とバッテリーを組み、卒業後は広島に入団するも3年で現役引退。20代半ばでコーチとなり、指導者人生をスタートさせた。

 スター選手が監督に就任する傾向が強い日本プロ野球界にあって、上田氏のようなキャリアの持ち主は貴重な存在だった。

 今回は、上田氏のように、現役時代は無名でも監督として実績を残した男たちを挙げてみたい。

(以下、文中一部敬称略)

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■常勝チームの礎を築いた根本陸夫

 上田氏が広島でコーチを務めたとき、監督だったのが後に「球界の寝業師」と呼ばれる根本陸夫だった。

 近鉄で捕手として6年間プレーした後、近鉄のスカウト、コーチを経て、1967年に広島のコーチを務め、1968年に広島の監督に就任。監督1年目で3位となり、同球団初のAクラス入りを果たす。その後はBクラスが続き1972年シーズン途中で休養。そのまま辞任した。

 それでも、監督在任中に山本浩司(当時の登録名)や衣笠祥雄らを鍛え、その選手たちが1975年のリーグ初優勝や、1979年、1980年の連続日本一に貢献し、広島は常勝チームとなった。

 根本はその後も1978年から1981年までクラウンライター、西武。1993年、1994年とダイエーで監督を務める。両チームとも後を受けた広岡達朗(西武)、王貞治(ダイエー)がそれぞれ日本一になるなど、広島時代と同様に常勝チームの基礎を作った。

 そして、西武、ダイエーともに監督退任後は、それぞれの球団のフロントで手腕を発揮したことも忘れてはならない。

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