弘兼憲史×蛭子能収「人生は70歳からが最高だ」(1)デビュー雑誌の原稿料は0円でした (1/2ページ)
弘兼憲史氏が新しい老後を提唱する人気連載のスペシャル版として、今回はバラエティやドラマで活躍する蛭子能収氏との対談が実現。ともに「古希」という大きな節目を迎えた漫画家でありながら、生き方、考え方はまるで別。2人のリアルな「老活」トークに、これからの人生を楽しむヒントが隠されている!?
弘兼 蛭子さんといえば「ローカル路線バス乗り継ぎの旅」ですが、元相棒の太川陽介さん、奥さんの騒動で大変でしたね。
蛭子 俺、久しく会ってないんだけど、会見を見ると奥さんのことを笑って許していましたね。
弘兼 「神対応」って言われていますよ。
蛭子 え~、わかりませんよ~。太川さんは怖いところがありますからね(笑)。
弘兼 ハハハ。という話は置いておいて、蛭子さんと僕は同じ1947年生まれ、いわゆる団塊の世代です。子供の頃は、手塚治虫先生や石ノ森章太郎先生など、トキワ荘出身の方の漫画を読んでいたんじゃないんですか。
蛭子 俺、「鉄腕アトム」くらいしか読んでないんですよ。どちらかと言うと、貸本屋に行っていたクチで。
弘兼 確かにあの頃は、大手出版社の漫画雑誌と貸本漫画の二通りありましたね。貸本だと、僕はさいとう・たかを先生の「台風五郎」シリーズが大好きでした。水木しげる先生も「墓場鬼太郎」を描いていましたね。
蛭子 そうそう。
弘兼 僕は小学生の頃からずっと漫画家になりたかったんですけど、蛭子さんは?
蛭子 高校の時からですね。美術部に入って、グラフィックデザインをやっていました。
弘兼 そこから、どうやって漫画家に?
蛭子 卒業して看板屋に就職したんですけど、下積みがつらくて、逃げ出してきたんですよ。