長嶋茂雄、王貞治…レジェンドたちが認めた「至高のプロ野球選手」

日刊大衆

長嶋茂雄、王貞治…レジェンドたちが認めた「至高のプロ野球選手」

 一流といわれる選手の中でも、さらに選ばれし者たちだけに与えられる特別な地位。球史に残る「攻守の星」は誰だ?

 いよいよペナントレースは終盤戦。特にCS進出のかかったチームには、大事な試合が続く。こういった勝負のかかる局面で、輝きを見せるのが「4番打者」そして「エース」という存在だろう。プロ野球の長い歴史の中で名選手は数多くいるが、4番やエースという肩書きを背負っていた選手となると、実は意外に少ない。自身も南海の4番として活躍した球界レジェンドの一人・野村克也も、この2つの役割を特別視している。「野村さんは“チームの鑑となって、組織を牽引し、勝利に導く存在”こそが4番とエースであると語っています。ただ、優れた成績を残すだけではなれないということです」(スポーツ紙記者)

 野村と肩を並べる「レジェンド4番打者」には“ON”の長嶋茂雄王貞治がいる。2人のすごさは今さら語るまでもないが、それでは、彼らが“最強の4番”と認めるバッターは誰なのだろうか。「長嶋さんが惚れ込んだ4番打者といえば、やはり松井秀喜です。巨人監督時代、松井を4番にすえるために“1000日計画”を立てて育成したのは有名な話。“現代で最高のホームランバッター”と、引退時まで絶賛していました」(スポーツ紙ベテラン記者)

 長嶋からマンツーマンで熱血指導を受けた松井は、在籍10年で332本塁打を放ち、巨人歴代屈指の4番打者に成長。さらにはメジャーの名門、ヤンキースの4番を打つまでになった。

 長嶋が松井を育てたように、王が自ら獲得に動いた打者がいる。それが柳田悠岐(ソフトバンク)だ。フルスイングが信条のパワーヒッターながら、2015年にはトリプルスリーも達成した万能型。今季は主軸・内川聖一の不調もあって、4番を任されている。柳田は11年、ドラフト2位でプロ入りした。「実はこの年、ドラフト2巡目では秋山翔吾(現・西武)を指名する予定でした。そこを柳田のパワーにひかれた王さんがひっくり返したんです。“巧打者は出てくるが、スラッガーはなかなか出てこない”と、周囲を説得したといいます」(スポーツ紙デスク)

 翌シーズン、西武入りした秋山は開幕からスタメン入りして活躍。しかし柳田のほうは2軍暮らしだった。「当時、記者の間では“王さんの目も曇ったかな”なんて声も聞かれました。でも、柳田は2年目から頭角を現し、今や日本を代表するホームランバッター。もう“さすがは王さん”としか言えません(笑)」(前同)

■清原和博は西武ライオンズ黄金期に君臨

 素質を見込んだ柳田が活躍する一方、王が獲得できなかった天才打者も忘れてはならない。巨人監督時代、“涙のドラフト”で袂を分かつことになった清原和博だ。「王さんは、清原の打撃センスを非常に高く評価していました。巨人の1位は桑田真澄でしたが、王さん個人は、本当は清原を取りたかったのではないでしょうか」(前出のベテラン記者)

 結局、清原は西武に入団。石毛、平野、辻、秋山、デストラーデという、そうそうたるメンバーがそろった西武黄金期に、絶対的4番打者として君臨した。当時の監督・森祇晶が若き清原を主軸に据えた理由。それは打撃力よりも“4番の資質”だったという。

「森監督は後年、“彼ほどチームの勝利に喜びを感じていた選手はいない”と語っていました。自分の打撃よりチームの勝利を優先する清原の姿勢に、厚い信頼を寄せていたようです」(球団関係者) 清原は、よく“無冠の帝王”と呼ばれるが、常勝軍団の4番という厳しいポジションで結果を出してきたのは、紛れもない事実だ。

 さて、次は野村克也が認める「4番打者」だ。「あるテレビ番組で“最強の4番打者”を聞かれた際、野村監督は1位に王貞治、2位に落合博満の名前を挙げていました。王は分かりますが、次に落合の名前が出たのは意外でしたね」(スポーツライター)

 落合は、ロッテの主砲として、3度の三冠王を達成。この天才スラッガーは1986年オフ、世紀の大型トレードで中日へ移籍する。同年、中日監督に就任した星野仙一は、「一番大事な場面で一番ヒットが打てるバッター」と、落合の打撃にベタぼれだったという。「星野さんは、どうしても落合が欲しかった。ロッテと交渉するために、なんと現総理の父であり、当時の自民党の重鎮だった安倍晋太郎氏まで頼ったそうです。その執念は、就任2年目に優勝というかたちで花開きます」(前出のベテラン記者)

 その後、落合は94年にFAで巨人に移籍。在籍3年のうち2度、4番打者としてチームを優勝(うち日本一1回)に導いている。「松井秀喜も、4番で圧倒的な存在感を放つ落合に学ぶところが大きかったようです。落合の背中を見たからこそ、4番・松井が完成したともいえます」(前同)

■金田正一と稲尾和久はエースの象徴

 さて、ここからは「真のエース」に目を向けよう。エースの象徴として、球界の大物OBたちが口をそろえる2人の大投手がいる。「金田正一と稲尾和久です。野村、長嶋、王……レジェンドはみんな、2人の名前を出します」(同)

 金田は、泣く子も黙る400勝投手。史上最高ピッチャーとの呼び声も高いが、驚くことに、その勝ち星の多くは直球とカーブだけでもぎ取ったものだ。「打撃の神様・川上哲治さんが“軽く160は出ていた”と評したストレートは、伸びがすごくてホップする。長身だから角度もあるし、何より厄介なのは、“ノーコン”で荒れ球だったこと。ONはよく“あの球は打てないよ”とこぼしていましたよ」(当時を知る元記者)

 金田はそのピッチングだけでなく、器も大きかった。当時、多かったダブルヘッダーの試合で、よく、こんな光景を目にしたという。「第1試合に金田が投げて完投勝利。2試合目はスタンドから見ているんですが、序盤でリードを奪うと、いつの間にかユニフォームに着替えてベンチに現れる。それで“投げます”ってマウンドに上がって、勝利投手になっちゃうんですから。大エースにしかできない芸当ですよ(笑)」(前同)

 一方の稲尾も、シーズン42勝(最多記録)、日本シリーズ7戦中、5先発で4完投など、とんでもない記録を多数残した大投手だ。剛球で鳴らした本格派だが、投球スタイルは金田とは対照的だった。

「速球、変化球ともに一流ですが、稲尾の最大の武器は、洞察力とコントロールの良さ。ストライクゾーンの四隅を丁寧につき、打者の狙いを外す巧さがありました」(前出のベテラン記者)

 そんなクレバーな投球術は、あの野村克也にも大きな影響を与えている。「野村監督は著書の中で、“稲尾との勝負は大きな財産”とつづっています。打者心理を読んで、その裏をかいてくる。そんな稲尾の頭脳的な投球によって、野球の真髄を教わったとまで称賛していました」(前出のスポーツライター)

■本気の怪物・江川卓は打てない

 クレバーな大投手といえば、怪物・江川卓も忘れてはいけない。当時の巨人番記者は、こう語る。「江川は常々“理想は27球で試合を終えること”と公言していました。その根底にあるのは、エースとして先発完投するという意識。豪腕投手ですが、力をセーブしても抑えられる高い投球術も持っていたんです」

 江川は常に全力投球しているわけではない――これを目の当たりにしたのは、巨人の鹿取義隆GMだ。鹿取は大学時代、江川と対戦した試合で驚嘆させられた出来事があったという。「鹿取がランナーとして二塁に進んだとき、そこから江川の投球が一変。それまでとはまるで違う、すさまじいボールを投げ込んだといいます。それを見て鹿取は“本気の江川は打てない”と感じたそうです」(前同)

 江川が全力投球するのは、得点圏にランナーを背負ったとき。今風に言えば“ギアを上げる”投球だ。江川の現役当時、下位打線によく打たれて“手抜き”といわれた背景には、こんなエース哲学があったのだ。

 最後に紹介する「真のエース」は野茂英雄だ。トルネード投法から繰り出される剛速球と落差の激しいフォークボール。長嶋は野茂を社会人時代から大絶賛していたという。「“あのフォークは絶対に打てない。クローザーにすれば100%成功する”と断言していましたね」(同)

 野茂は8球団競合の末、1990年に近鉄入り。いきなり18勝で最多勝を獲得するなど、投手タイトル総なめの大活躍で、1年目からエースの座についた。当時は西武黄金時代の真っ只中。野茂の代名詞とも言えるフォークボールは、最強打線を苦しめた。「西武の主軸・秋山幸二に、“投げてくるのが分かっているのに打てない”と言わしめるほど、野茂のフォークはものすごい落差だった。もっとも、西武に限らず、当時のパ・リーグの主砲たちはみんな、お手上げだったようですけどね」(前出のスポーツ紙デスク)

 同じ投手の立場で、野茂を誰よりも高く評価していたのは、阪神の絶対的エースだった江夏豊氏だ。「豪快なピッチングに秘められた、客観的に自己分析できる知的な一面を称賛していました。プロ意識の高さこそ、往年の大投手も認めるエースの資質だったのかもしれません」(前同)

 今後、さらに伝説となる「最強4番」と「真のエース」の誕生に期待したい!

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