原巨人&矢野阪神誕生で「長嶋VS野村」の死闘再び! (2/3ページ)

日刊大衆

 原監督は、長嶋第二次政権下でコーチとなり、そこで巨人指揮官としての帝王学を叩き込まれた。

「試合後は、2人きりで采配を振り返るのが恒例でした。もともと原さんは“長嶋派”ではなく藤田派。それでもミスターは、後継者として惜しみなく野球理論を伝授したんです。そんなミスターに最後は原さんも、すっかり心酔していたといいます」(巨人番記者)

 英才教育を受けた後、原コーチは、長嶋氏の後任として監督に就任。師匠の期待に応え、就任1年目で日本一達成という快挙を成し遂げている。

 一方の矢野監督は、1999年に阪神監督に就任した野村氏によって、球界を代表する名捕手へと育て上げられた。

「野村さんは“頭を使え!”と、矢野に考える野球を意識させていった。もともと守備には定評があった矢野ですが、これで打撃が開眼。打率3割をマークできるようになり、結果、捕手としても洞察力やリードがさらに成長していきました」(虎番記者)

 野村氏のボヤキを間近で聞き続け、野球脳を確立していった矢野監督。今でも、“野村監督に教わったことが財産”と公言している。

 長嶋、野村両氏に、大きな影響を受けた原と矢野。彼らの激突が“代理戦争”となる背景には、やはり師匠の長い対立の歴史がある。

 その始まりは、現役時代にまでさかのぼる。巨人の長嶋、南海の野村。年齢的に同学年でもある2人は、セ・パ両リーグを代表する強豪チームの中心選手として出会った。

 しかし、その地位を築くまでの道のりは、あまりにも対照的だった。「六大学野球の人気者だったミスターは、争奪戦の末に巨人入団。契約金は当時の最高額でした。そして1年目からレギュラーをつかみ、本塁打と打点の二冠を獲得。新人王にも輝いて一躍、球界のスーパースターとなったんです」(当時を知る元記者)

 片や野村氏は、大学卒の長嶋氏より4年早くプロ入り。ただし、プルペンキャッチャーでのテスト入団だった。「ブルペン捕手は通称“カベ”。投手の練習台でしかなく、いつクビを切られてもおかしくない立場です。しかしノムさんは、そこから猛練習に猛練習を重ね、3年目で1軍の正捕手の座を勝ち取った。

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