奢れる平家に見事リベンジ!以仁王の挙兵で主君の雪辱を果たした渡辺競のエピソード (1/6ページ)

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奢れる平家に見事リベンジ!以仁王の挙兵で主君の雪辱を果たした渡辺競のエピソード

最近、ニュースなどでも盛んに言及されている「パワハラ」。権力を恃んで立場の弱い相手が逆らえないのをよいことに、理不尽な振舞いに及ぶことを言います。
(※言葉自体はともかく、行為自体は大昔からあったことは言うまでもありません)

その怨みは時として深刻な事態に発展してしまうことも少なくありませんが、今回はとあるパワハラと、そのリベンジにまつわるエピソードを紹介したいと思います。

以仁王の挙兵・頼政の覚悟

時は平安・治承四1180年5月26日。後白河法皇の第三皇子である以仁王(もちひとおう)を擁立して源頼政(みなもとの よりまさ)が「平家追討」の大義を掲げて挙兵。

後世に言う「治承・寿永の乱(いわゆる源平合戦)」の火蓋が切って落とされたのでした。

頼政陣営の顔ぶれ、宇治川の橋合戦にて。

……が、計画が事前にバレてしまったり、根回しが上手くいかずに兵力が足りなかったりなど、けっこうグダグダ感が目立ち、勝算がかなり薄かったことは頼政自身も承知だったと思われます。

しかし、それでも頼政には「戦わねばならぬ」動機がありました。

奢れる平家と愛馬の悲しみ

挙兵よりしばらく前、頼政の嫡男である源仲綱(みなもとの なかつな)は「木の下(このした)」という名馬を飼っていました。

それが大層な評判となり、やがて権勢の絶頂にあった平清盛の三男である平宗盛(たいらの むねもり)が「木の下」を所望するようになります。

武士にとって、馬はいざ戦場で命を預ける大切な伴侶ですから、そう易々と譲るわけにはいきません。

しかし、宗盛は引き下がることなく父親の権力を嵩(かさ)に脅しすかし、しつこく要求。それを知った頼政は、要らぬ波風を立てまいとして、仲綱を諭します。

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