佐賀県東松浦郡肥前町高串の増田神社に祀られている増田敬太郎を調べてみた (1/6ページ)

心に残る家族葬

佐賀県東松浦郡肥前町高串の増田神社に祀られている増田敬太郎を調べてみた

「昭和の子ども」なら誰でも知っている話がある。児童文学作家・斎藤隆介(1917〜1985)の『花咲き山』(1969年)だ。

■『花咲き山』のあらすじ

少女あやが山菜採りで山に登った。道に迷ったあやは、山の中でひとりの山ンばと出会う。あやの目の前には、今まで見たことがなかった美しい花々が咲き乱れている。山ン場が言うには、一面の花はすべて、辛いのを辛抱して、自分がやりたいことをやらないで、涙をいっぱいためて辛抱すると、その優しさと健気さが、花になって咲く。あやの足元に咲いている花は、あやが妹のそよのために、お祭りの赤い着物を我慢し、そよに譲ってやったことで、咲いたものだと。

山から戻ったあやは、この話をみんなに話した。しかし誰も信じない。あやはまた、山に行ってみたが、山ンばも花々も見つからなかった。だが、あやはその後時どき、「あっ!いま花咲き山で、おらの花が咲いてるな」って思うことがあった…。

■佐賀県東松浦郡肥前町高串の増田神社に祀られている増田敬太郎

明治時代に、まさに「花さき山」を彩る一輪の可憐な花のような人物がいた。佐賀県東松浦郡肥前町高串(ひぜんちょうたかくし)にある「増田神社」に祀られた増田敬太郎(1869〜1895)だ。

1895(明治28)年7月21日、佐賀県の唐津警察署に配属されたばかりの増田だったが、赴任先の入野村(いりのそん)高串地区では、死に至る恐ろしい伝染病・コレラが大流行していた。増田は患者が出た家の消毒や交通遮断、予防法の指導はもちろんのこと、コレラ感染を恐れた住民の代わりに、死者が出た際は、土地に火葬の風がなかったため、村から2キロほど離れた墓地まで遺体を運び、埋葬するほどの献身ぶりだった。三昼夜、不眠不休で働いていた増田だったが、23日の午後にはコレラにかかってしまい、翌日の午後3時に亡くなってしまった。25歳の若さだった。臨終の際に増田は、「私は死んでも、この高串に今後悪疫は入れない」と言い残していたという。

■増田敬太郎の生い立ち

たった25年だったとはいえ、増田は冒険心に富んだ、ある意味波乱万丈な生涯を送った人物だった。

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