人は死ねばごみになるのか (2/4ページ)

心に残る家族葬



■「命のリレー」の裏に潜むもの

その月命日の1週間前に、こうした心情とは真逆の報道が飛び込んできた。

脳死した男児(当時1歳)の肺が移植される様子を無断でテレビ番組(2017年7月放送)で放送されたとして、男児の両親が番組を放送したTBSと移植手術をした岡山大学病院、日本臓器移植ネットワークなどを相手取った損害賠償訴訟を広島地裁に起こした。

両親と代理人弁護士によると、番組は移植医に密着取材する内容で、両親には放送前に連絡はなく、肺が画像処理されずにそのまま映っており、番組を見た男児の母親は髪の毛が大量に抜けるなど精神的苦痛を受けた。

母親は「夢で息子に会うことだけが慰めだったのに、夢の中の姿さえ肺になってしまい唯一の安らぎを奪われた」と話した。

また、ドナー(臓器提供者)だと直接わかる情報は含まれていなかったが、手術した日などから知人に知られたとし、臓器移植法の運用指針に反する、プライバシーの侵害に当たるとした。(朝日新聞デジタル 2019年4月5日17時27分配信から抜粋)

■遺体を「モノ」としてみる傾向があったからこそ起きた出来事

この記事で目を背けたくなる箇所が、「夢で息子に会うことだけが慰めだったのに、夢の中の姿さえ肺になってしまい唯一の安らぎを奪われた」というところだ。夢の中の息子が肺として現れるとはどれだけの苦痛であろう。

医療現場、医学の最前線の特集であれば、摘出された臓器はまさに番組の「肝」である。テレビ局としては臓器移植のリアルを伝えるための欲が出たのかもしれないが、どのような社会的意義があるにせよ、遺族にとっては晒しもの以外の何物でもない。

また、撮影を許した病院、移植ネットも同罪であると考える。内容の監修にあたったはずの医師らが画像処理をしないことにさほどの意識がなくても不思議ではない。医師にとってドナーの肺は部品、パーツに他ならない。部品だからこそ移植に使えるのだ。
「人は死ねばごみになるのか」のページです。デイリーニュースオンラインは、カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る

人気キーワード一覧