「聖なるもの」の喪失が教える「価値あるもの」 (2/3ページ)

心に残る家族葬

これに対して国内の反応は歴史的建造物を傷つけられた「怒り」であり、日本の文化を侮辱された「憤り」であったように思えた。炎上する大聖堂に祈りを捧げる人達の心情はそれらとは異なるように思える。「惜しみ」「怒り」「憤り」いずれも当てはまらない。強いて言えば例えようもない「悲しみ」であろうか。

■現代の日本人が失いつつある「宗教心」

フランスではライシテと呼ばれる政教分離策が徹底していることで有名だ。しかしフランス国民にとっては政治と宗教が別であることは、別であるという端的な事実以上のものではない。単なる区別である。むしろ政治や社会を動かす合理的な要素とは無関係であることで純粋な宗教心が保たれているといえる。

一方、日本人は無宗教であることにある種の精神的熟成を感じている節がある。信仰を持っている人よりも、神仏を信じない人の方が科学的な態度を持つ理性的な人間であるとされている節がある。また、宗教は心の弱い人がすがるものであり、信仰を持たない人の方が精神的に自立しているというイメージだ。人前結婚式などことさら宗教色を遠ざけようとする傾向も、無宗教的態度がより現代的、つまり科学的で理性的な態度だとされているからではないか。

■宮本武蔵にとって神仏はどんな存在だったか

宮本武蔵が圧倒的多数の吉岡一門との対決を前に、社に手を合わせようとして自らの弱さを恥じる場面がある。しかし武蔵は「神仏を尊び、これを頼らず」とした。神仏を軽んじるのではない、武蔵は神仏とは尊ぶものであり、勝手なお願いを聞いてくれる都合の良い存在ではないと言っているに過ぎない。武芸者としての矜持を保ったエピソードとして人気が高い。これも神仏に頼ることは弱い心だとされているからだろう。

しかし、人間はどうしても神仏に頼らざるをえない存在だ。死の恐怖、自然災害の猛威、抗えない運命…人知を超えたものには手を合わせるのみであり、その奥に大いなるものを感じるのは当然である。それでも目に見えないものを信じるのは難しい。こうして神像や仏像、聖遺物が作られることになる。宗教建築物は人間の心の現れなのだ。

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