死ぬも生きるも兄弟一緒!平安時代、数万の軍勢に突撃したたった2人きりの零細武士団の武勇伝

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死ぬも生きるも兄弟一緒!平安時代、数万の軍勢に突撃したたった2人きりの零細武士団の武勇伝

歴史の授業で「武士団」という単語をご記憶かと思います。武士団とは文字通り武士の集団で、名立たる合戦で激突した大軍同士も、それぞれが武士団の集合体でした。

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当然その数も人望や経済力によってまちまちで、数千~数万の軍勢を率いる有名どころの大名から、父子や兄弟など二人きりという最小単位の武士団まで、実に様々でした。

今回は、とある零細武士団の武勇伝を紹介したいと思います。

一族に名誉を!兄の悲壮な決意

時は平安末期の寿永三1184年2月7日。源平合戦におけるハイライトの一つである一ノ谷の戦いで、源氏方の大将・源範頼(みなもとの のりより)に従う二人の兄弟。

その兄の名は河原太郎高直(かわはらの たろうたかなお)、弟は次郎盛直(じろうもりなお)と言う武蔵国(現:東京都および埼玉県)の住人で、武蔵七党の一つ・私市(きさいち)党を構成する二人きりの武士団でした。

平知盛肖像。伝狩野元信筆・赤間神宮蔵。室町時代

彼らは平家方の大将・平知盛(たいらのとももり)が守る生田の森の砦を攻略せんと臨みますが、双方睨み合うばかりで、なかなか戦闘が始まりません。そんな中、太郎が次郎に言いました。

「なぁ次郎。多くの郎党を率いる大将は自ら戦わずとも部下の手柄が評価されるが、我らは自ら命を賭けて戦わねばならん。まして敵の軍勢を目の前に指をくわえていては坂東武者の名折れ。そこで我一人にて敵陣へ殴り込み、一矢射かけてやろうと思うが、そんなことをすれば千に一つも生還の見込みはなかろう。そこでそなたは陣中に残り、後日わしの武勇を証明して欲しい」

【原文】
「大名は我と手を下ろさねども、家人の高名をもつて名誉す。我らは自ら手を下さでは叶ひ難し。敵を前に置きながら、矢一つをだに射ずして待ち居たれば、余りに心許なきに、高直は城の内へ紛れ入つて、一矢射んと思ふなり。されば千万が一いつも、生きて帰かへらんことあり難し。汝は残り留まつて、後の証人に立て」

生命に代えても一族に名誉を!……そう願う兄の悲壮な決意を聞いた次郎は、泣きながら答えます。

「たった二人きりの兄弟、兄の死と引き換えに弟が栄誉を得たところで、一体何の価値があるでしょうか。いつか別々に死ぬよりも、同じ場所で討死しましょう!

【原文】
「ただ兄弟二人ある者が、兄討たせて、弟が後に残り留まつたればとて、幾程の栄華をか保つべき。所々で討たれんより、一所でこそ討ち死にをもせめ」

兄思いな次郎に感激した太郎は、ひしと弟を抱き寄せてから「いざ!参ろうぞ!」「おう兄者、行かいでか!」……たった二人で平家軍数万の守る生田の森へ突撃しました。

生田の森の先陣ぞや!河原兄弟かく戦えり

さて、河原兄弟は夜陰に乗じて逆茂木(さかもぎ。樹木を逆さに立てて根をむき出しにしたバリケード)をくぐり抜けながら、大音声で名乗りを上げました。

「やぁやぁ遠からん者は音に聞け……我こそは武蔵国の住人、河原太郎こと私市の高直!」

「同じく次郎盛直、生田の森の先陣じゃ!」

【原文】
「武蔵の国の住人、河原太郎私市の高直、同じき次郎盛直、生田の森の先陣ぞや」

しかし対する平家方は敵がたった二人と見くびって、

「ほぅ、さすが坂東武者は命知らずと聞いていたが流石じゃのう……しかしたった二人で何が出来るものか。生暖かく見守ってやれ」

【原文】
「あつぱれ東国の武士ほど恐ろしかりけるものはなし。この大勢の中へ、ただ兄弟二人駆け入つたらば、なにほどの事をかし出だすべき。ただ置いて愛せよや」

……などと余裕の対応。これに腹を立てた河原兄弟は得意の弓で、片っ端から矢を射かけました。その凄まじい矢勢に平家方は散々に逃げまどい、流石に見過ごせなくなった知盛が河原兄弟を討ち取るよう命じます。

すると平家方きっての強弓・真鍋五郎祐光(まなべの ごろうゆきみつ)が進み出て、弓を満月の如く引き絞り、射放った矢は太郎の胸板を貫きました。

「……兄者!」

「次郎……我に構わず、先に行け!」

「兄者を見捨てらりょうか!共に参ろうぞ!」

と、太郎の腕を肩にかけてなおも前進を試みますが、真鍋の矢が次郎の太腿を射貫き、二人崩れ落ちたところを駆けつけた真鍋の郎党に斬られ、あえなく討死してしまいました。

折り重なって倒れ伏し、討ち取られる河原兄弟(右)。『平家物語絵巻』より。

後刻、献上された河原兄弟の首級を前に知盛は

「この者らこそ一騎当千のよき武士と言うべきだ。命を助けてやりたかったが、誠に惜しいことだ」

【原文】
「あつぱれ剛の者や、これらをこそ、一人当千のよき兵どもとも言ふべけれ。あつたら者どもが命を助けてみで」

と賛辞を贈ったそうです。

終わりに

よく「死んで花実が咲くものか」と言いますが、たった二人の兄弟が、どっちも討死してしまったら恩賞どころか御家の存続さえままなりません。

歌川国芳「生田森追手源平大合戦」弘化年間ごろ

しかし、その一方で「人は一代、名は末代」とも言うように、命以上に名誉を重んじた武士たちにとって、たとえ家は絶えようと名が残ることに価値を見出す生き方・死に方もまた是(ぜ)とされるものでした。

ただ生きるだけが至上の価値ではない。必ずしも「死んでおしまい」ではない――その希望こそが、無数の零細武士団をして新しい武士の時代への血路を斬り拓かしめた原動力となったのでしょう。

※参考文献:
石母田正『平家物語』岩波新書、昭和三十二1957年
小松茂美編『平家物語絵巻 巻第九』中央公論社、平成七1995年5月25日

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