歴代総理の胆力「松方正義」(1)近代日本最大の財政家 (1/2ページ)

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歴代総理の胆力「松方正義」(1)近代日本最大の財政家

 明治新政府には、大久保利通、井上馨、伊藤博文、陸奥宗光など政治的リーダーシップを発揮した人材は多々いたが、国の台所を賄うことには常に四苦八苦で、経済・財政理論に基づく財政家は乏しかった。背景には国家予算の「入」と「出」のバランスを取ることで、国家の安定を保つという発想がなかったことがある。

 松方正義がその財政の指揮を執るまでは、やたらと紙幣を刷って借り入れを続ける一方、多くの藩札の出回りもあって、通貨は乱れに乱れていた。加えて、歳入の確保といった財政の基礎すらの認識もなく、新政府といってもいつ潰れてもおかしくない状況にあった。ここに登場したのが、大蔵大臣兼務で内閣を組織した松方ということだったのである。

 薩摩藩士の4男だった松方は、藩校の「造士館(ぞうしかん)」で学んだのち、いくつかの役所に勤めたが、その謹厳実直な性格、落ち度のない仕事ぶりから、藩士・島津久光の側近に取り立てられたのが“出世街道”への第一歩であった。

 維新後は、日田県(いまの大分県の一部)知事に就任、明治6(1873)年から8年間を費やして、大久保利通のもとで地租改正に携わった。これにより「土地は商品」が定着、以後、土地の私有権が認められることになった。一方で、松方はこの地租を国家の主財源とすることに尽力もしたのだった。

 そうした中で、明治10(1877)年の西南戦争で再び戦費のための不換紙幣の増発をやむなくされ、インフレが急速に進むことになる。その1年後、松方は渡仏、同国蔵相のレオン・セーから近代財政学を学んで帰国した。松方は、フランス仕込みの新たな財政観の中で、兌換(だかん)紙幣制度を確立するなど不換紙幣の回収、その実現に乗り出した。通貨の信用を旨とした兌換紙幣発行の唯一の銀行たる中央銀行としての、日本銀行を創設したのだった。このあたりが、事実上の日本資本主義のスタートということになる。

 一方、大蔵卿・大蔵大臣歴じつに14年7カ月、フランスの近代財政学による松方の放漫財政から一転の厳しい緊縮財政方針は、反作用もまた招くことになった。地租改正の犠牲になった貧農者による「農民一揆」の勃発、没落を余儀なくされた士族も続出するなど、デフレ現象を招いたということであった。

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