平安時代の謎多き女性「常盤御前」の生涯には、乱世を生きる女性のうら悲しさが…

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平安時代の謎多き女性「常盤御前」の生涯には、乱世を生きる女性のうら悲しさが…

牛若丸(源義経)の母親としても知られる常盤御前。彼女の生涯についてはいまだ謎が多くあります。彼女はもともと朝廷では雑仕女という下級の女官でした。

これは、美人1000人の中から100人を選び、100人の中からさらに10人に絞り、10人の中でももっとも美しい女性を選出していたそうです。当時、常盤御前は13歳。このような逸話からも、彼女が人並外れた美貌を持っていたということがわかると思います。

常盤御前 (歌川国芳 画)

残念ながら両親についてはその素性が明らかになっていないことから、もともとはそんなに身分の高くない家の出であったことが推測されます。

1153年、源義朝の妻となった常盤御前は、今若、乙若、牛若の3子を出産。ところが、3人の子供が幼いうちに義朝は平治の乱で殺されてしまいます。

常盤御前の最初の夫となった源義朝

行き場を失った常盤御前は、勝者である平清盛と男女の関係を結び、子どもたちは助命されました。やがて、清盛の元で廊御方(ろうのおんかた)と呼ばれる清盛の娘を出産します。廊御方は、右大臣・藤原兼雅(ふじわらのかねまさ)の妻となり、幸福な生涯を送ったと伝えらえています。

後に清盛と別れた常盤は、一条長成の妻となります。そこでも何人か子どもをもうけました。その後も彼女は豪族の男と関係を結び歩き、次々と子どもを授かっては産んでいったと伝わります。

その後の彼女の足取りについて、確かなことは文献上確認できません。伝承では、岐阜県関ケ原で命を落としたと伝えられており、かの地には彼女の墓と伝わる石造物があります。そのほかにも鹿児島県鹿児島市、群馬県前橋市、埼玉県飯能市にも常盤御前の墓とされる遺構が残されています。また、一説には長成との間にもうけた嫡子である能成(よしなり)の元で静かに余生を過ごしたとも伝えられています。

生き残るためとはいえ、力のある男の元に身を寄せるしかなかった当時の女性。謎の多い常盤御前の生涯には乱世を生きる女性のうら悲しさを感じることができます。

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