江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜、あまり語られない隠居後は趣味人としての道をまっしぐら? (1/2ページ)

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江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜、あまり語られない隠居後は趣味人としての道をまっしぐら?

約260年にわたって続いた江戸幕府の最後の将軍となった徳川慶喜。1867(慶応3)年10月14日、大政奉還の上表を調停に提出した後、王政復古のクーデターによって将軍の座を追われた慶喜は、二条城、大阪城、江戸城を転々とした後、1868(慶応4)年2月から上野寛永寺において謹慎生活をはじめ、4月には水戸の弘道館においても謹慎生活を余儀なくされました。

そして、同年5月、徳川家を継いだ家達の後見人・松平確道から駿府(現・静岡県)への移転を求められ、これが新政府によって認められたことにより、静岡で生活することになりました。

そのため、ここにきてひとまず激動の社会から一歩引いたところへ身を置くことができた慶喜でしたが、その後の彼は世の中から気を紛らすかのように趣味の世界に没頭するようになります。

まず、彼が最初に興味を示したのが「油絵」でした。この頃東北では激しい戦闘が続いている状態であり、慶喜は隠居生活を過ごす常盤町の宝台院を出られる立場にありませんでした。そのため、インドアでもできる油絵が、唯一の気晴らしだったというわけです。

このとき、慶喜の油絵の師になったのが、博物図譜的な動物画を数多く残した中島 仰山(鍬次郎)。西洋の絵葉書などを教材にしていたそうです。

更に慶喜は、明治への改元以降、狩猟、鷹狩、囲碁、将棋、投網、能、刺繍などの多彩な趣味の世界にのめり込んでいきます。駿府城公園の濠では、ウナギ釣りまでしていたそうですから驚きですよね。

また、写真を撮られると寿命が縮まるとまで信じられて嫌がられていた時代に数多くの写真を残しています。まるで、政治的な野心の矛先を自らの趣味に向けていたようにも筆者には取れます。

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