決死の作戦と兄弟愛!天下一の強弓・源為朝が唯一倒せなかった大庭景義の武勇伝【上】 (1/4ページ)
古今東西、戦傷(いくさきず)と言うものは何かと話のタネにされたもので、子供のころは銭湯などでご老人が頼みもしないのに腹やら肩やら、爆弾やら鉄砲の傷痕を見せてきては「これは満州で……」「これは南方で……」など、九死に一生の武勇伝を語ってくれたものでした。
この必死の活躍を、誰かに知ってもらいたい、できれば認めてもらいたい……きっとそんな思いがあるのでしょうが、その心情は遠い昔の武士たちも同じでした。
そこで今回は、平安末期「保元の乱」で活躍したとある坂東武者のエピソードを紹介したいと思います。
強敵!鎮西八郎こと源為朝今は昔の八百余年、朝廷で繰り広げられた後白河天皇派と崇徳上皇派の権力争いが、武力衝突にまでエスカレートした「保元の乱(保元元1156年7月)」では、源氏も平氏も各々が敵味方に分かれて戦うこととなりました。
今回の主人公である大庭平太景義(おおばの へいだ※1かげよし)は弟の三郎景親(さぶろうかげちか)と共に後白河天皇方の源義朝(みなもとの よしとも)に従い、崇徳上皇方の立て籠もる白河殿(しらかわどの。現:京都府京都市左京区)の攻略に当たりました。
「……来おったか。この鎮西八郎の弓を受けてみよ!」
ここを守っている上皇方の大将は、弓の名手として西国に名高き鎮西八郎こと源為朝(みなもとの ためとも)。