30年経っても癒えぬ傷…カンボジア「ポル・ポト大虐殺」の爪痕

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一夜にしてゴーストタウンに……
一夜にしてゴーストタウンに……

 一夜にして街がゴーストタウンと化す。普段となんら変わりのない家族の団らん中に、突然兵士が入って来て、全ての日常を奪って行く……。家族も財も、そして人間の心さえも全て……。そんなカンボジアの惨劇を、プノンペンよりレポートしていきたいと思います。

 まずは、今回のお話の元凶である“ポル・ポト”という男をザックリ説明します。ヒトラー同様に、世界に名を残す独裁政治の指導者であり、社会主義もとい国を完全な農業体制に戻すべく、都市は必要ない断言。街から住民を追い出し、銀行、一切の通貨を廃止して国を抑止していった人物です。都市を追い出された人々は農村に追いやられ、強制的に働かされては殺されていく……。その悲劇とポル・ポトの性格を物語る名言がコチラです。

「たとえ親であっても社会の毒と思えば微笑んで殺せ」

※密告制度により、家族でさえ裏切るものは殺せ

「腐ったリンゴは、箱ごと捨てなくてはならない」

※1人殺せば、その家族は復讐心を持つ。ならば、家族ごと殺さねばならない

 この言葉だけでも、彼の異常さが伝わってきますよね。そんなポル・ポトの粛清により、じつに総人口の3分の1にもおよぶ、300万人もの罪なき国民の命が奪われたと言われています。当時の様子を知るべく今回向かったのは、政治犯収容所だった「トゥールスレン(S21)」。元々は高校の校舎。本来であれば、子供たちに教養を与え育てる場所が、多くの子供やカンボジアの人々が殺される場所と化していたんです。2年9ヶ月の間に、14,000〜20,000人が収容され、そのうち生還できたのはたった8人。知識人階層も数多く虐殺されており、学校の先生やお医者さん、メガネをかけているという理由だけで殺されてしまった人もいるとのことでした。その悪夢が終わりを迎えたのが1979年のことですから、40代以上の人はリアルにその地獄を味わっているのです。

トゥールスレン


 当時のカンボジアを表現した地図がありました。全土は白骨で埋め尽くされ、川は血で染まり、1つの国が処刑所のように機能していた様子が伝わってきますよね。

当時のカンボジアを表した写真

 そんな大量虐殺が行われたトゥールスレンの館内は、いまでも床には無惨にも血痕が残されていて漂う空気は重々しい。奥には、罪なく殺されていった人たちの写真が並んでいます。

トゥールスレンの館内

 月並の言葉ですが、「いま僕らの回りにある毎日の幸せってなんだろう?」そう考えさせれる光景が広がっていました。

 そして、トゥールスレンに付属する処刑場「キリング・フィールド」にある大木は、“キリング・ツリー”と呼ばれ、まだ小さな子どもは、足を持たれ頭をこの木に叩きつけられて殺害されていきました。当時、銃弾は高価なもの。ナイフなどでの殺害は武器を劣化させてしまうとして、この方法がとられていたようです。“雑草を取り除くなら根っこから”という考えのもと、将来、敵になりうる可能性のある子どもも大量に殺害されていきました。

キング・ツリー

 また、広大な土地には数えきれないほどの穴があいています。これらは、当時5メートルほどの深さがあり、入りきらないほどの死体で埋め尽くされていたとのことです。現在でも、雨期になると泥にまみれて、回収されきれていない遺骨や衣服が出てくることもあるそうです。

遺体が埋められていた穴跡

 現在はたくさんの笑顔が溢れるようになったカンボジアですが、30年以上が経過したいまも、まだまだ深い爪痕は残されているのです。

(取材・文・写真/曼谷壱蘭)

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