【哀悼】「闇社会の守護神」ヤメ検の田中森一氏、激動の人生に幕|宮崎学コラム

デイリーニュースオンライン

アップダウンの激しい人生を送った田中氏
アップダウンの激しい人生を送った田中氏

 2014年11月22日、東京地検と大阪地検の元特捜部検事で元弁護士の田中森一さん(71)が死去した。23日に荼毘に付され、葬儀などは行われないという。

「敏腕検察官」から、自家用ヘリを持つ「空飛ぶ弁護士」として時代の寵児となったが、石油卸会社「石橋産業」をめぐる手形詐欺事件に関連して逮捕起訴されて有罪判決を受け、約5年の服役も経験するという、アップダウンの激しい人生であった。

法曹界の仕事はドブ掃除と同じ

 長崎の貧しい半農半漁の村で生まれた田中氏は、漁師の跡取りとして育てられたが、司法試験に一発合格、1971年に検察官となった。

 在任中は、阪大ワープロ汚職事件、撚糸工連事件、平和相互銀行事件、三菱重工転換社債事件など当時の大きな事件を担当しているが、小さな頃からそろばんが得意で数字にも強く、取り調べを受けた被疑者が驚くことも多かったと聞いている。

 捜査の限界を感じて弁護士に転身した時は80年代不動産バブルの絶頂期であり、田中氏はその恩恵を最も享受した一人であった。焼鳥屋チェーン「五えんや」グループの中岡信栄氏、街金大手「アイチ」の森下安道氏などのバブル紳士、「イトマン」の伊藤寿永光元常務、さらには山口組若頭の宅見勝氏、「日本財界のフィクサー」と呼ばれた許永中氏などと親交があり、弁護人や代理人を務めることも多かった。

 このため、「闇社会の守護神」あるいは「闇社会の代理人」などと呼ばれていたが、本人は意に介さない様子で、「『闇社会』の人間であろうと、偉い先生であろうと、法の前では平等で、救済される権利があるのです」と強調していた。

 また、「弁護士の仕事は、『犯罪者』として国から訴追された被告人の権利と利益を擁護することです」「検事も弁護士も、そして裁判官も法曹界の仕事はしょせんドブ掃除と同じ。人殺しから離婚まで、法律が必要とされるのはドロドロしたことなんです。人間のいちばん汚い部分の後始末をするのが私たち法律家なんですよ」とも話していた。

 強面のイメージがあるが、実際には気さくで愉快な人物で、相手がヤクザだろうと政治家だろうと態度を変えず、いつもニコニコしていた。そして、貧しい者やアウトローに対する視線はやさしかった。

 2008年には石橋産業事件で懲役3年の有罪判決が確定したが、収監の約9か月前にお嬢さんを亡くしたことは絶筆となった『「遺言」闇社会の守護神と呼ばれた男、その懺悔と雪辱』(双葉社)で知った。

 しかし、滋賀刑務所に服役中に別件で有罪判決を受け、結局は4年8か月もの刑務所暮らしを強いられた。

 その間には胃に癌が見つかって手術も受けている。刑務所の医療のレベルを考えると心配であったが、元気に出所してきて、「いやあ、刑務所は寒かった」と笑いながら話してくれたばかりか、むしろ私の体調を気遣ってくれた。

 収監中に再逮捕された時は目の前が真っ暗になったこと、抗癌剤の副作用には往生したことなども話してくれたが、出所後には笑い話ではあっても、当時は相当しんどかったに違いない。体重も10キロ以上落ちていた。

 癌が再発してからは調子が悪そうであったが、新刊の企画の相談にも乗ってもらった。氏への取材が体調のせいで叶わなかったことが悔やまれてならない。田中氏自身も、まだまだやりたいことがあったと思うが、私ももっと一緒に仕事をしたかった。

 謹んでご冥福をお祈りする。

宮崎学(みやざきまなぶ)
1945年京都生まれ。早稲田大学在学中は学生運動に没頭し、共産系ゲバルト部隊隊長として名を馳せる。週刊誌記者を経て実家の建築解体業を継ぐが倒産。半生を綴った『突破者』で衝撃デビューを果たし、以後、旺盛な執筆・言論活動を続ける。近著に『突破者 外伝――私が生きた70年と戦後共同体』(祥伝社)、『異物排除社会ニッポン』(双葉社)など多数。
「【哀悼】「闇社会の守護神」ヤメ検の田中森一氏、激動の人生に幕|宮崎学コラム」のページです。デイリーニュースオンラインは、宮崎学検察犯罪裁判社会などの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る

人気キーワード一覧