【借金に生活苦】あの名レスラーが「壮絶人生」の果てに死去

デイリーニュースオンライン

晩年は親の年金を頼りに生活していたという阿修羅・原
晩年は親の年金を頼りに生活していたという阿修羅・原

 波瀾万丈、生々流転——。そうとしか言いようの無い人生だった。元プロレスラーの阿修羅・原(注1)が、4月28日、故郷の長崎県諫早市内の病院で亡くなった。享年六十八。脊椎管狭窄症、心筋梗塞、肺炎、さらには精神的にも病んでいたという。

 もはや阿修羅・原を知らない世代も多いかも知れないが、今回は哀しくも気高い男の生き方を知ってもらいたい。

「阿修羅・原」のリングネームをラグビーファンとして知られる作家・野坂昭如氏が名付けたように、原は元ラグビー日本代表であり、日本人で初めて世界選抜チームに選ばれたほどの一流選手だった。そこに目をつけた国際プロレス(注2)がスカウトして、短期間でエリート育成。すぐにJr.ヘビー級タイトルを獲得して頭角を表す。1981年秋からは全日本プロレスに闘いの場を移し、ジャイアント馬場、ジャンボ鶴田、天龍源一郎に次ぐ「第四の男」として順調にポジションを占めていった。

 そんな阿修羅・原の人生が狂い始めたのは、1987年頃(注3)から。リングの上では天龍と組んだ伝説のユニット「龍原砲」がスタート。体を張った数々の激闘で、ファンからも社長の馬場からも高評価を得て、おそらく生涯最高の充実を見せていた。プロレスファンが思い出す原の雄姿も、この頃が多いのではないだろうか。ところが私生活は……。

「生来、派手好きで見栄っ張りなところがあり、後輩や女や取り巻きに大盤振る舞いを繰り返し、借金まみれになっていった。返済できないから、どんどん筋の悪いところから借りることになる」(スポーツ紙記者)

 当然、生活は荒れ、家庭も不和に。さらには試合会場まで「まともじゃない人たち(ジャイアント馬場談)」が取り立てに詰めかけることになり、88年末、ついに馬場は阿修羅・原を解雇した。

「父親の年金」で暮らした晩年……

 失踪し、誰も行方を知らない状態となった原。天龍が新団体「SWS(注4)」を旗揚げするにあたって捜索し、札幌で見つけた時は2年の月日が経っていた。以後、復帰するも心身ともにボロボロになっていた原は、かつてのド迫力ファイトを取り戻せないまま、1994年に引退した。

「長らくお借りしました。今日、阿修羅をお返しします」

 盟友、天龍は原の妻子を引退式のリングに上げて感謝した。が、原は妻子の元ではなく故郷・長崎へ帰った。地元の高校でラグビーを教えたりもしたようだが、生活は認知症の父親の介護が中心。唯一の収入が、その父親の年金だったという。父が逝き、そして満身創痍だった自分も……。

 満員の日本武道館や両国国技館でメーンに出場して満場を沸かせ、夜は取り巻きを引き連れて暴飲暴食。女にだってモテまくる——。阿修羅・原の人生は、昨今の「草食系」が裸足で逃げ出すほどギラつき、「意識高い系」なら眉をひそめるくらい健康や人生設計への意識が低い。しかし、なぜか見る者を魅了する色気に溢れていた。その源泉は盟友・天龍ともども、自らの人生を差し出してまで大衆を楽しませる<覚悟>にあったのではないか?

 天龍が引退する11月まで待たないのも、阿修羅・原らしい。「源ちゃん(注5)、皆が盛り上げてくれるだろうから俺は先に行ってるよ」と、あのダンディな顔で笑っているのだろう。

(注1)阿修羅・原…本名・原進(すすむ)。故人だが敬称略としたい。
(注2)国際プロレス…吉原功社長。進取の精神に富んだ面白さがあったが、人気は低迷。1981年夏に倒産した。
(注3)1987年頃…1984年にも、主催興行の失敗から短期間失踪している。
(注4)SWS…二年で解散したあと、天龍はWARを設立。原も追随した。
(注5)源ちゃん…原が呼ぶ天龍源一郎の愛称。男臭さがカッコいい。

著者プロフィール

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コンテンツプロデューサー

田中ねぃ

東京都出身。早大卒後、新潮社入社。『週刊新潮』『FOCUS』を経て、現在『コミック&プロデュース事業部』部長。本業以外にプロレス、アニメ、アイドル、特撮、TV、映画などサブカルチャーに造詣が深い。DMMニュースではニュースとカルチャーを絡めたコラムを連載中。愛称は田中‟ダスティ”ねぃ

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