【意外な真相】「徹子の部屋」のきっかけはTBSラジオだった!|プチ鹿島コラム

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【意外な真相】「徹子の部屋」のきっかけはTBSラジオだった!|プチ鹿島コラム

「徹子の部屋」(テレビ朝日)が5月27日に放送1万回を迎えた。番組の最後には司会の黒柳徹子にギネス認定員から1万回のギネス世界認定証が手渡された。とんでもない長寿番組である。私はこの日、TBSラジオ「荒川強啓デイキャッチ!」でニュースプレゼンターという、その日のニュースをわかりやすく伝える係を担当していた。さっそく「徹子の部屋」のエピソードをいろいろ調べることに。

局長が帰宅時にカーラジオを聴いて……

 2007年に出版された「『徹子の部屋』の30年」(講談社)を読んでいたら、どういう経緯で番組がスタートしたのか黒柳徹子が答えていた。「徹子の部屋」の前身は1972年から始まった「13時ショー」(NET・現テレビ朝日)。日本では初めてのニュースショーで、女性がメインの司会者となるのも初。この番組のトークコーナーを特化したのが「徹子の部屋」(1976年スタート)になる。

 さらに読んでいくと興味深いエピソードが。「13時ショー」がスタートする前、黒柳は1年間ニューヨークの演劇学校に留学していた。ここからの展開を同書から抜粋する。

《私はニューヨークに行く前に、TBSラジオで、お一人の方に1回20分のインタビューを毎日一ヵ月続けるという番組をやってまして、例えば落語家の小さん師匠に通算400分話をうかがうわけです。それを当時のNETの局長さんが毎日、夜、車で家にお帰りになる時に聴いていらしたそうなんです。その内容が面白くて、テレビでもできないか、と発想なさったのがはじまり。》 (黒柳徹子)

 え、TBSラジオがきっかけ? じゃぁなんていう番組名だったんだろう。これを調べて紹介できればなかなかの情報になる。しかしTBSラジオ局内のいろんな方に聞いてみたが、なんせ40年以上前なので誰もわからず。ネットにも情報はない。そこで、資料室に眠る「TBS50年史」というぶ厚い本をスタッフが持ってきてくれた。コツコツと番組表を調べ始めた。ポイントはふたつ。

・「黒柳徹子がニューヨークへ行く前の年(1970~71年)」

・「テレビ局の局長が帰宅中に聴いていたというので夜帯の番組」

 これに絞れば番組名にたどり着きそう。……だが、とにかく番組数が多すぎてわからない。黒柳徹子の名前も載っていない。もしかしたら冠番組ではなくて、どこかの番組のワンコーナーか? いろいろ想像してても仕方ないので、黒柳さんの事務所に電話してみることに。

 すると「あ、それなら黒柳本人だったらわかると思います」

 え、まさか、本人に聞けるのだろうか?

「14時から舞台の本番がありましてそちらに出ております」

 ああ! 私の「本番」には間に合いそうもないのでお礼を言って電話を切る。残された時間で先ほどの「TBS50年史」の番組表をもう一回みてみる。すると「1973年~78年」は1ページにまとめられていた。ふと夜帯の番組をみると「22時25分から40分」のところに小さく「黒柳徹子」の文字が! 番組名は「チャターボックス S」とあった。これだ! 時間帯も、テレビ局の局長が帰宅中っぽい時間!

 調べてみると「チャターボックス S」は1974年が最終回。おそらくだが、この時間帯を数年間にわたって黒柳徹子がTBSラジオで番組を担当していたのではないか。「ニューヨークに行く前」(1970~71年)もはさんで。番組名も変遷があったのかもしれない。40年以上前の資料なので細かく記載されていなかったのだと思う。

 というわけで、「徹子の部屋の」のルーツはラジオ番組だったというお話でした。

著者プロフィール

putikashima

お笑い芸人(オフィス北野所属)

プチ鹿島

時事ネタと見立てを得意とするお笑い芸人。「東京ポッド許可局」、「荒川強啓ディ・キャッチ!」(ともにTBSラジオ)、「キックス」(YBSラジオ)、「午後まり」(NHKラジオ第一)出演中。近著に「教養としてのプロレス」(双葉新書)。

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