カンボジア大虐殺の首謀者ポルポトの墓を訪問してみた

カンボジア大虐殺の首謀者ポルポトの墓を訪問してみた

 1970年代半ば、東南アジアでナチスドイツの蛮行に匹敵する大虐殺がおこなわれた。その数は国民の3分の1にあたる100~200万人とされているがはっきりとした数はわかっていない。

 凄惨な大虐殺がおこなわれたのはカンボジアという国でのことだ。1975年、政権を奪取したクメールルージュは、原始共産主義を実践し、国内をたちまち大混乱の極致へ追い込んでいく。干ばつや飢え、疾病に加え、思想改造という名目で、積極的に国民を殺めてしまった。

 1979年、政権は崩壊した。政権のリーダーであるポルポトらはタイ国境近くのジャングルに逃げ込み、長年ゲリラ戦をおこなった。カンボジア国内がようやく平和を取り戻し始めた1998年、ポルポトはその地でひっそりと亡くなった。そのころから、カンボジアは平和な国になっていった。

■クメールルージュでのツアーは140ドル

 クメールルージュの旧陣地を訪ね、ポルポトの墓をみてまわるツアーというのがあるので参加してみた。僕以外の参加者がいなかったため、倍額の140ドルとかなり値段が張ってしまった。ポルポトの墓があるタイ国境の町アンロンベンまではシェムリアップから約130キロ。カンボジアは国内各地に地雷が埋まっていたのだから、道は悪いはず。片道5時間はかかると予想していた。ところが寄り道をしながらだというのに3時間ですんなりついてしまった。

 ポルポトの墓はみすぼらしいの一言につきた。トタン屋根と棒きれだけで覆われていて、案内されなければ、世界史に残る大虐殺をしでかした人物の墓だとは絶対わからないほどだった。トタン屋根の下には、古タイヤとともに燃やしたのか、溶けかかったタイヤとともに遺骨が土の上に、むき出しの状態で、置かれたままになっていた。

「以前はここに建物が建っていた」とガイドの青年は言う。とすると、誰かが墓を破壊したということだろうか。

 僕は墓の前だということで、していいのか、ためらいながらも、形式的に軽く手を合わせてみた。ところが隣にいたガイドの青年はあわせることはなく、じっと立っていた。ガイドは僕がなぜ、手を合わせなかったのか察したらしく、聞いてもいないのに、理由を吐露しはじめた。

「私の父は軍人で母親は教師でした。二人ともポルポトに殺されたんです」

 突然の告白に僕は黙りこんだ。

「この国で彼を好きな人なんて誰もいませんよ」

 彼は静かに、しかし恨みのこもった口調で続けた。ポルポトはこうやって死んでからもこの国の人たちに恨まれ続けるのだ。

Written&Photo  by 西牟田靖

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