江戸時代に生まれた村八分。火事以外に「葬儀」の付合いも残したというが…

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江戸時代に生まれた村八分。火事以外に「葬儀」の付合いも残したというが…

江戸時代に生まれた「村八分」ーーこれは火災と葬儀以外での付き合いを断つという習慣。葬儀の際には、近所の人々は「村八分」にされた人でも、手助けしなければならないとされていたという点で、葬儀というものは、昔から近所の人々同士の助け合いで成り立っていたというイメージがある。しかし江戸時代よりも以前の鎌倉時代や室町時代には、近所の人々が葬儀や埋葬の手助けをすることは殆どなかったという。

■鎌倉・室町時代、葬儀や埋葬を手伝うという習慣はそもそもなかった

江戸時代よりも更にさかのぼった中世日本と呼ばれる鎌倉・室町時代。その時代は貧しい人々が亡くなった場合、きちんと埋葬されないのが普通であった。

その理由は幾つかあるが、一つには、そもそも故人の遺体や遺骨にこだわる習慣がなかったためである。

そしてもう一つ大きな理由がある。それは江戸時代を含めた近世以降に発達する「近所に住む人々同士の助け合いによる葬儀や埋葬」が、当時には未発達であったからということである。

■しかし江戸時代でも、葬儀や埋葬が行われていなかったという

先ほど述べたように、江戸時代には葬儀や埋葬は近所の人々が手助けすべきこととされるようになっていた。

そのため貧富の差に関わらず、どんな人でも何らかしらの形で葬儀や埋葬をされていた。結果として大規模災害(伝染病や飢饉も含めて)など余程のことがない限り、遺体・遺骨が放置されることは滅多になくなった、とされている。

では、なぜここで「とされている」と記したか、それは実際には遺体・遺骨について葬儀・埋葬せずに、放置されていた地域があったからである。

■江戸市内では遺体放置が日常的な光景であった可能性も…

その地域の一つとは江戸市内、つまり今の東京中心部の水辺であった。当時の江戸では、水死体が極めて多かった。そうした遺体の扱いの法律には、遺体が汐入(淡水と海水の境目)で見つかった場合、棹などで突き流すこととするものがあった(一度突き流しても戻ってきた場合、幕府の役人に届け出ることとされた)。

要するに江戸の水辺は、朽ち果てた水死体が浮かんで放置されていても、それが「普通の日常の光景」であったことを意味する可能性があり、これが葬儀・埋葬が行われていなかったということにつながるのだ。

そういえばフィクション作品の例だが、落語「野ざらし」では、登場人物が川辺の白骨遺体に酒を掛けて供養する場面がある。しかし、誰も届け出たりはしていない。この白骨の主も、放置され朽ち果てた水死者の一人だったに違いないだろう。

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