親友、法廷に立つ。
5月17日、覚せい剤取締法違反の罪に問われた清原和博被告の初公判が東京地裁で開かれ、弁護側の情状証人として野球評論家の佐々木主浩氏が出廷。清原被告の人柄などについて証言した。
今、球界では誰も清原被告との関係について触れられたくない、という。だからこそ、親友として、元ライバルとして、周囲の目を気にせずに法廷に立った「大魔神」の勇気を讃える声は多い。
ただ、このニュースで気になる点がある。いくつかのメディアが(しかも全国紙でも)「高校時代からの親友」「高校時代からのライバル」という言葉を使っていたが、これは誤りだ。
清原和博と佐々木主浩はいかにして出会い、ライバルとなったのか。今一度、彼らの球歴を振り返ってみたい。
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■高校時代はライバルではなく、ファン
PL学園高校の清原和博と、東北高校の佐々木主浩。同級生の二人はともに何度も甲子園に出場しているが、甲子園での対戦経験はない(※清原:1年夏から5季連続。佐々木:2年夏から3季連続)。
そして、仮に対戦が実現していても「ライバル」にはならなかったはずだ。それほど、清原の実力は同級生のなかで抜きん出ていた。このことは、佐々木自身が自著の中で認めている。
《高校時代、僕は彼のファンだった。(中略)当時の甲子園でPLの清原、桑田といえば大スターもいいところだった。甲子園でふたりを見つけただけで、僕たち他校の生徒は大騒ぎになったものだった》(佐々木主浩『大魔神伝』より)
ライバルではなく、ファン。それが高校時代の二人の関係性だった。
ちなみに、二人が初めて出会った(お互いを認識した)のは、高3秋の鳥取国体。清原を見つけた佐々木が記念撮影を頼んだのがキッカケだった。ただ、この国体でもPL対東北のカードは実現しなかった。
その後、PLに佐々木と親しい選手がいたことから、その選手を介して清原とも会話をするようになり、より親しくなるのは大学(東北福祉大)に入ってから(清原は西武入団後)だったという。