鈴木砂羽の土下座騒動を通して感じる演出家・ジャニー喜多川の偉大さ|平本淳也のジャニーズ社会学

Photo by Pixabay(写真はイメージです)

 鈴木砂羽さんの演出による舞台公演の場外乱闘が今でも話題となっている。演出家によるパワハラなのか、役者の無責任なのかと波紋も広がり賛否も分かれるところ。今回は砂羽さんという人気女優が標的となって騒動が広がったために売名行為とも疑う見方もあるが、実際にこういった現場のイザコザは無数に存在する。

 ひとつの作品を作るうえで、キャストもスタッフもすべて重要なのは当然だが、作り手と演じる側の温度差に出る感覚的な擦れ違いはかなり多い。映画やドラマも含めて芝居の世界は演出家や監督、脚本といった制作と現場のトップをはじめ、多くのスタッフとキャストによって構成されるが、これが完全なピラミッドの場合は案外と上手くいっている。

 要するに社会的な構成図に伴った上下左右の関係が理解できる組織は割と安泰的だ。しかし上が不安定だと下は言うことを聞かないしすぐにダレる。一部ではプロデューサーと演出を担った砂羽さんらの力量不足も大きな要因とされているが、経緯はどうあれ組織の運営が出来なかった制作側の責任もある。

 ただ問題を外に出して愚痴るやり方はない。旧SMAPの連中を見習いなさいよね。経営トップに「出ていけ!」と公言されても黙ったまま今に至る。いつかどこか破裂するかもしれないが、あえて現場を混乱させることはしんいだろう。降板した女優ふたりが属する事務所にしても情けなさが残るような印象にあるし、業界人としてオカシイ。

 この程度でグタグタやっているのはアホらしいと思わないのかね。というより、すぐにSNSで愚痴るよね。トランプ大統領ほどの影響力があるなら現代ではそれもあるが、芸能事務所が自らの評価を下げる諸事情を公開する姿勢には疑問が残る。契約上よくある守秘義務的なものもあってもオカシイくないが、普通は舞台裏を公言しないし、下手したら営業(業務)妨害にもなる。

 芸能界は厳しい世界なので罵声や罵倒は当たり前のように飛び交うし、時にはいじめのような現場さえ日常的だ。業界内でも特に演技の現場は個々の責任が大きいし、容易な入れ替わりができるものでもなく、一度決まった事を成し遂げないとならない真剣勝負の世界だ。本番前ともなればプレッシャーも大きくなるし制作と演者ともテンションが高くなっている。

 まあ、通し稽古の段階まで来ていれば最終段階に入っているだろうから、なんでここでモメるのかって感じ……どっちにも責任はあるが、プロとしてはしょーもないレベルで全くアホな話だ。

 稽古中に「死ね」とか「生きている資格がない」とか、それは人道的に反する言葉だが、そういった言葉を浴びせられていたら致し方もないが、「へたクソ! 何度同じ事を言えばわかるんだ」とか「オマエの代わりなんかいくらでもいるんだ」、「出ていけ! もう辞めろ」などなど、この程度ならこの世界じゃ一般的でさえする。演出家や監督の性格にもよるのは当然だが、いずれにしても、これらは言葉のアヤである。

 だって、本当に出ていかれたり、辞めたりされると困るのはそれを言った本人だもの。「こいつは、何を言われても負けないし、絶対に出来る」と信じて言う訳さ。言われる方もムカツキながら分かっているので、この程度言われても辞めたり投げたりしない。要するに「信頼関係」なのよ。

 言葉は悪いし身体にも良くないが、怒鳴ったり、文句を言っている、あるいは言われているこの間はとても良いのよ。「出来る相手に出来ると思って指示している」ワケで、「出来ない相手に何を言っても仕方がない」から最初から何も言わないし、そもそもその現場にいない。

 つまり、そうした罵倒も自分への励みとして受け取らないと役者なんてやってられないのだ。むしろ「オマエの代わりなんかいくらでもいるんだ!」と言われたら「代わりが出来る奴がいれば連れてこい!」、「出ていけ!」「もう辞めろ!」には、それなら俺を追い出してみろ、辞めるのはオマエだ!くらいの勢いというか姿勢が欲しいほどだ。喧嘩とは違う「立ち向かう姿勢」と「自信」である。

 スポーツの世界も同じだ。先日、100メートル走で日本人初の10秒切りで全国を湧かせた桐生祥秀さんもコーチとは随分とモメたようだが、結果的には大きな目標を突破して更なる夢に向かえるパートナーとしても信頼は厚くなったはず。要するに着地点に差があったらダメだし、思いに大きな違いがあれば最高の作品は完成されない。

 使ってやっているとか、出てやっているみたいな感覚だと信頼関係なんか生まれないし、双方とも面白くない。また役を与えられた以上、その役は自分にしか出来ないというより「自分のもの」だから重要に取り扱わなければならないし、与えた方もむやみに取り返すことはできない。(頼んだ=頼まれた)そんな約束みたいな感じか、ここには大きな責任もある。

 特に業界で言う「アナ」を空けるなんて絶対にあってはならないくらいの常識だ。親が死んでも現場には来いと言われる世界だ。一人の都合で何十人もがその迷惑を被ってしまう。ドラマや映画となったら数百人の規模で変更しなければならない作品も少なくない。病気やケガならともかく、勝手に髪の毛を切るバカがいたりすると現場は大混乱だ。

 役者にとって演出家や監督というのは、その役である「自分を作ってくれる人」であり、そして演出家も「自分の創造を具現化してくれるのが役者」であり、双方が通じてはじめて完成されるものが作品となる。どちらか一方の想いが大きいと成立しないし、またその温度差があれば世間からの感動なんて得られない。

 そもそも作品があって、演出や脚本という作り手が、その役を演じてくれる役者にオファーするものだが、選ぶ立場の制作側と選ばれる立場の役者という構図からすれば、作り手側が偉そうな立ち位置にあるように思える部分も少し問題だろう。

 それは役者の質にもよって変わってくるが、「出て下さい」と「出してやる」では大違いの扱いは否めない。芸能界は「選ぶ」「選ばれる」で成り立っているといっても過言ではないし、オーディションという言葉と方法手段が実施されている業界は芸能の世界くらいだ。

 ただし、それはどっちが偉いとか、上とか下とか、そういうのではない。新人とベテランにしても同じ現場に入った以上は上下もなにも関係ない。一般的な会社と同じ具合で常識の範囲の関係だ。例えば、同僚にも先輩や後輩がいたり、面倒をみてくれる上司やお世話になる取引先など、それは単なる組織であって強弱を示すものではないが、互いを意識したうえで取り交わすのが挨拶だ。そんこなことは自然界の動物でもやっている。

 芸能界には昔から古い体質があって、体育会系のような縦社会的な場面が多くある。テレビ局に入れば「先輩の楽屋にご挨拶」、それは当然と思えるし、なんら不思議は感じない。ただ上が下に声掛けしても良いでしょう。そういう演出家や監督、あるいはベテランさんも多くいる中で、最近そういった光景をよく見かける。

 互いが恐縮しあって結構イイ雰囲気にも思えるが、現場に入ったら「プロ対プロ」なのでガラリと変わった雰囲気で恐ろしささえ感じる。その点、ジャニー喜多川さんもそんな感じだ。ジャニーさんはもともと世話好きな性格なので、せっせっと動くし、現場に入れば自ら声をかけて回ったりと、あのジャニーズ事務所の社長が?って感じで知らない人から見れば、せかせかしたカワイイじいさんなんです。

 しかしレッスン中や舞台の現場となったら誰も声をかけられないほどの気迫をオーラのように纏っているから、演出家の印象としては怖い感じの人となるが、プライベートで会うときの普段の姿は、ただの気さくで飄々としたおじさん。その両極端な振り幅と使い分けはまさにプロだよね。

 今でこそ世界のジャニー喜多川もお年を召して落ち着いたが、イケイケで元気があった過去から現在においても、「オレ、社長、エライ」という威圧的な雰囲気は出さないし、また偉そうな態度でどーんといった姿勢を見せたことはない。ジャニーさんは絶対にそういった言葉は使わない。

 ただし、舞台裏でジュニアたちのステージ用衣装を両手を抱えて走っていたときは相当疲れたようで、このときばかりは、「僕はジャニーズ事務所の社長だよ!」「なんで衣装を持って走っているの!」って少しキレていたことを付け加えておく(笑い)。

著者プロフィール


ジャニーズ出身の作家

平本淳也(ひらもと・じゅんや)

ジャニーズ出身の作家で実業家。著書34冊のベストセラーを誇る売れっ子の物書きとして、テレビや雑誌など多くのメディアに記事やコメント提供。実業家としてはコンサルティング会社や芸能プロダクション、レコード会社などを運営し、タレントから起業家まで幅広い活動の支援を行っている。http://vjsv.com/

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