貞淑美女タレントの性白書 田中美佐子 奇跡の58歳熟女に高まる再“美乳ヌード”熱(2)

| 週刊実話

 その田中は、兄2人と姉の4人兄姉の次女として誕生(島根・隠岐郡西ノ島町)。高校卒業後に上京し、短大在学中に劇団『ひまわり』に入団した。
 「“普通のOL”になりたくなかったそうです。ただそれだけで、有名人になってやろうという気はサラサラなかったようです」(前出・小松氏)

 そして、短大卒業後の1981年、TBSの緑山塾からドラマ『想い出づくり』でデビュー。当時の芸名は“田中美佐”だった。
 1982年、『ダイアモンドは傷つかない』で映画初出演(主演)した。
 「サイズはT163センチ、B82・W57・H85。小ぶりながらも、形のいいおっぱいを披露して、新人賞を総なめにしました。次の映画でも裸身をさらし、ヌード写真集も出しましたが、本人はそれが嫌で、一時、芸能界を休業していたことがありました」(映画関係者)

 復帰のきっかけをつくったのは、萩本欽一だった。
 「当時、欽ちゃんが司会を務めていた番組で、彼女はアシスタントをしていたんです。意を決して欽ちゃんに相談したところ、当時、欽ちゃんが所属していた事務所の関連会社を紹介された。今の“面白さ”の原点は、ここにあるようです」(前出・テレビ局関係者)

 1992年、『眠れない夜をかぞえて』(TBS系)で連ドラ初主演。以後、映画やドラマで安定した演技を見せてきた。
 「ちなみに、夫でお笑いコンビ『Take2』の深沢邦之とは、この事務所で知り合いました。実は、売り出す前の深沢は、田中の付き人兼運転手をしており、その“献身ぶり”に田中の方が先に惚れたのです」(芸能レポーター)

 結婚は1995年11月だった。
 「深沢は7歳年下の上に、当時の月収は10万円程度。それに対して田中は年収1億円だったため、“収入格差100倍婚”として大きな話題となりました」(ワイドショー芸能デスク)

 それでも、夫婦の間に亀裂が入ることはなかった。
 「深沢が田中を立てまくり、“主夫”をやり抜いた。掃除・洗濯・料理など、忙しい田中に代わって腐ることもなく何でもやった。深沢は、お笑いタレントとして売れなくても、姉さん女房の“何とかなるさ”“あたしについてきな”という言葉を信じたのです」(お笑い関係者)

 2002年12月には待望の長女を出産。夫婦の絆はより一層強まる。
 「高齢出産とあって、さすがに産休、育児休養を取りましたが、2005年10月期の連ドラ『ブラザー☆ビート』(TBS系)で復帰を果たしました。もちろん、“稼ぐ”ためです」(前出・テレビ局関係者)

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