「供養」という言葉の本質や「供養」とは真逆となる行為が何なのかを考えてみる

| 心に残る家族葬
「供養」という言葉の本質や「供養」とは真逆となる行為が何なのかを考えてみる

ひとえに供養といっても、形としての供養には色々な形式があります。そもそもの供養とは、仏様に真心の代品として、香を焚き、華や燈明で装飾し、祖供え物を捧げる行為からきています。そこから派生し伝来してきたのが現代における供養で、現在日本で行われている仏教徒における供養の形としては、故人の旅立ちに際して、無事に仏様のいらっしゃる極楽浄土へ行き、幸福なあの世での生活が送れるように祈る儀式的な認識だと思われます。

■「供養する」ということに形式は問われない。

確かに供養とは儀式なのです。故人が生前好きだったとはいえ、死者が食べたり、飲んだりするはずもない、故人の好物だったものをお供えしたり、はなむけとして、煙草や酒を捧げたりと、一見するとまるで意味のないことにも思えてきます。しかし、そこには決して形式だけでは表せない残された人々の故人に対する「心」が込められています。それこそが供養のあり方なのです。

■供養は「故人を想う心」が存在することが重要

葬儀、告別式、法要で僧侶にお越しいただき、お経を唱えてもらい冥福を祈り、返事があるわけではない柩やお墓に向かい語り掛けるという行為。故人を想う「心」がなければ成立するものではありません。

そして、供養の対象は人間だけではなく、家族同様に愛されていたペットなどの動物への供養や、人形供養という生き物を対象としたものではない供養もあります。人間ではない、動物や人形を供養するとなれば、それこそ形式だけでは済まされない、対象への深い「心」があるからこそ出来ることではないでしょうか。

■供養と真逆の行為とは?

罰当たりの最たるものは、先祖を無視してほったらかしにする行為だと言えるのではないでしょうか。自分の親兄弟、祖父母の供養を怠っては、自分自身をも貶めることへと繋がるのです。
普段から先祖、家族、友人を大切にしていれば、何事にも胸を張って生きて行くことが出来るのです。逆に粗末にしている人は、何かがあれば何者にも頼ることができないでしょう。それはつまり、己を大切にしているか、粗末にしているかと同等の事だといえるのです。

■最後に…

故人の冥福を祈り、供養を捧げることは、周囲に対する儀式であるとともに、自らの「心」を清める善行の最たるものでもあるのです。その行為が巡り巡って自らに還ってくるものであり、それにより、いずれは自分も極楽浄土へ旅立つことができるという安心感を得るものとなるでしょう。

大切なのは「心」ある供養であり、葬儀のときだけ豪華な装飾やお供えを用意すれば良いものではないのです。それは普段からの周囲との「心」あるお付き合いに表れているものです。

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