天下の猛妻 -秘録・総理夫人伝- 鈴木善幸・さち夫人(上)

| 週刊実話

 前任の大平正芳首相が昭和55年(1980年)6月の衆参ダブル選挙のさなかに急死したのを受け、後継の座に就いたのが鈴木善幸であった。当時、「ロッキード裁判」を抱え権力維持に必死の「闇将軍」田中角栄元首相が、自らの影響力保持のため、コントロールの利く鈴木を半ば強引に総理のイスに押し上げたものだった。
 半ば強引というのは、鈴木は元々、強いリーダーシップを発揮するタイプではなく、佐藤栄作政権下でじつに政府・自民党の“まとめ役”としての総務会長を通算10期も務めるなどの調整力が持ち味。衆目の見るところ「総理の器」ではなかったことによる。ために、国民からは「ゼンコー・フー(鈴木善幸とは何者)?」との声も出たのだった。
 一方で、自民党内の反田中勢力からは「田中のカイライ政権そのもの」との声を浴び、政権は2年余に及んだが、その間、目指した「行財政改革」はほとんど実らなかったものだった。

 夫人の鈴木さちは、「漁業」が縁で結ばれた。
 日中戦争さなかの昭和14年、岩手県海浜部の山田町出身の鈴木は時に28歳、疲弊する漁村の救済に情熱を傾け、全国漁業協同組合連合会(『全漁連』)の職員であった。そこに入る前は農林省の水産講習所に通い、ここでは「秀才」と謳われていた。
 一方のさちは、20歳、函館水産学校校長の長女で性格はざっくばらん、機転の利く辛抱強い娘であった。東京・赤坂の乃木神社で挙式した。

 しかし、箱根と決めた新婚旅行先からして、さちにとっては仰天の日々が待っているのだった。元鈴木派担当記者の証言がある。
 「鈴木を慕っていた漁業関係の若者たちが、なぜか宿泊先の旅館についてきた。夜になっても、鈴木はこうした若者たちと“漁業の近代化”について口角泡を飛ばし合ったり、碁を打ったりで、新婚“初夜”もヘチマもなかったそうです。また、新婚旅行から帰った新居でも同様で、夜は必ずと言っていいくらいこうした若者が訪れてくる。
 夫人はというと、これら豪傑たちの飲み食いの世話から彼らの薄汚れた六尺フンドシの洗濯まで、ただただ黙々とやっていたという。

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