小倉城と城内に残る三基の塚(花塚、筆塚、茶筌塚)について調べてみた

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小倉城と城内に残る三基の塚(花塚、筆塚、茶筌塚)について調べてみた

小倉城の「小倉」とは元来、海抜10m前後の低地を古くから日本では「こくら」と称してきたことに由来するものだが、ここは関門海峡に面した地域であるため、古くから防衛のために城が築かれていた。現在の小倉城がある場所に城が立ったのは1569(永禄12)年。毛利氏の手による小規模なものだった。1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いの後、細川忠興(ただおき、1563〜1646)が豊前国一帯を治めることとなり、小倉藩が成立。それに伴い、大規模な城が築かれた。1632(寛永9)年に細川家が熊本藩に移った後、小笠原家が小倉藩主となり、それが廃藩置県まで続いた。

■現在の小倉城に至るまでの歴史

幕末期の1866(慶応2)年、小倉城は長州攻撃の西側拠点となっていたのだが、長州勢の勢いに圧される形で、自ら城を燃やさざるを得ない状況となった。明治時代に入ってから第2次世界大戦敗戦までは城跡に、陸軍師団が置かれていた。戦後は一時米軍に接収されていたが、解除後の1959(昭和34)年に、「唐造り(からづくり)」という、4階から5階の間に屋根の庇(ひさし)がない、5階が4階より大きいことが特徴的だった天守閣が再建され、現在の美しい姿を人々に見せている。

■三基の塚はいつ建てられた?


このような経緯の中で、第2次世界大戦の敗戦国であった日本が戦後復興を遂げ、高度経済成長期の渦中にあった1960〜65(昭和35〜40)年に、福岡県北九州市小倉北区にある小倉(こくら)城内にたてられた3基の塚がある。

流転の運命を経た小倉城内に立てられている3基の塚とは、以下のものだ。

■花塚、筆塚、茶筌塚について

一基は茶筌(ちゃせん)塚。茶筌とは、茶道の折に抹茶を点てるのに用いる、竹製の茶道具だ。1960(昭和35)年、小笠原古流、表・裏の千家などが属した旧・小倉市茶道協会有志によって、古い茶筅の供養のために立てられた。

二基目は花塚。

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