さて、伊藤はこうした明治天皇の信任をバックボーンとして、以後、都合第4次内閣までを率いることになる。しかし、この間、明治天皇の信任、大日本帝国憲法成立の立役者の自負心が増長を招いたか、とりわけ外交面での洞察力を欠くことになる。
わが国初の本格的な対外侵略戦争行動となった日清戦争後は、列強の攻勢に対抗するためとして、軍備拡張計画、富国強兵策を推進、日露戦争を開始すると韓国に日本による保護国化を認めさせ、これはのちの明治43(1910)年8月、正式に韓国を植民地とすることにつながった。伊藤は韓国に統監府を置き、初代統監にも就任した。要するに、対外的には海外の支配権確立に目が向き、いささか近視眼的だったと言えたのである。
一方で初代韓国統監になったばかりに、暗殺されることになった。明治42(1909)年10月26日、伊藤は日露協商路線を唱えていたこともあり、韓国を植民地とするには、ロシアの了解が必要と訪露、列車でハルビン駅頭に降りたところで、韓国人・安重根の撃った七連発自動拳銃の3発を胸や腹に受けた。応急手当のため運び込まれた貴賓車内で気付けのブランデーを1杯飲み干し、犯人が韓国人だと伝えられると、一言「バカな奴じゃ」と言い、2杯目のブランデーを口にしたところで間もなく絶命した。
11月4日、日比谷公園で5000人が参列、わが国初の国葬が営まれた。陸海軍のトップらと共に葬場に向かう棺側(かんそく)を守った乃木希典将軍は、「大きな声では言えないが、じつによい死所を得られたものだ」と言ったとされる。奔放極まった女性関係と共に、この国の近代化へ向けて全力で突っ走った伊藤への、乃木将軍の感嘆、敬意、憧憬が偲ばれる。
余談だが、それまで禁止されていた「ふぐ」の食用解禁、広島県の銘菓「もみじまんじゅう」の“発案”は伊藤によるものだったとされている。後者は、茶屋の娘の可愛い手を取った伊藤が「まるで、もみじみたいじゃ」と言ったことで誕生したまんじゅうだったそうである。
死後、私腹を肥やすことのなかった伊藤には蓄財がなく、質素すぎる公爵家としての対面を保たせるため、明治天皇は金30万円を下賜したのだった。当時の物価から、現在の3000万円くらいに相当すると思われる。