江戸時代に日本とロシアの架け橋となった海商・高田屋嘉兵衛の生涯 その1

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江戸時代に日本とロシアの架け橋となった海商・高田屋嘉兵衛の生涯 その1

皆さんは「高田屋嘉兵衛」をご存知でしょうか。彼は江戸時代後期の船乗りで、北海道箱館(現在の函館市)の発展、択捉島の開拓に大きく貢献したほか、後年には数奇な運命から、当時関係悪化していた日本とロシアの架け橋となった人物です。

「高田屋嘉兵衛」の物語は、太平洋戦争以前の小学校の教科書に掲載されており、子供たちは11歳になると必ず彼について学んだのだそうです。今回はそんな「高田屋嘉兵衛」の生涯をご紹介します。

高田屋嘉兵衛の少年時代

明和6年(1769)、嘉兵衛(幼名・菊弥)は兵庫県淡路島に生まれました。海が身近な環境の影響もあって彼は幼い頃より海と船が好きで、将来は船乗りになりたいと夢を抱きます。暇さえあれば海を観察していた彼は、子供ながらに天候や潮流をよむ力を身に着けました。

そんな嘉兵衛も10代後半で成人し、隣村の親戚の家に奉公に出ると「他村の者」という理由で同年代の青少年たちから壮絶ないじめに遭います。暴言や暴力にさらされる日々で嘉兵衛の心身は弱りましたが、それでも彼は船乗りになる夢のために小規模の船で漁師仕事を手伝い、航海技術を学ぶ事は怠りませんでした。

淡路島を出て兵庫へ

寛政2年(1790)、22歳になるとついに嘉兵衛は島を出て、兵庫で廻船問屋を営む親戚の堺屋喜兵衛の元に身を寄せます。嘉兵衛は酷いいじめを受けた島での生活から一転、喜兵衛をはじめとする優しい人々の中で海運業に従事する事になり、伊丹・灘の酒を江戸に運ぶ樽廻船の水主(乗組員)になります。

水主のキャリアは誰しも下っ端から始まりますが、才能のあった嘉兵衛は普通何年もかかる表仕(航海士)の仕事に約1年という異例のスピードで抜擢。いじめられた経験から、誰にでも分け隔てなく優しく、人徳もあった嘉兵衛は3年後には25歳の若さで船頭(船長)を任されるようになりました。

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