前回は江戸を生きる人々の“午前3時~午前9時前頃”までをご紹介しましたが、今回は“午前9時~午前11時前頃まで”をご紹介します。
前回の記事はこちらを御覧下さい。
徳川家康が江戸をはじめとする関八州を拝領した頃、江戸には大田道灌が作った城が寂れた姿で残っており、人口も決して多くはありませんでした。
家康は江戸を再構築するために、全国から多くの優れた職人達を江戸に呼び寄せました。その中でも大工職人は伝統の技を駆使して町を作り上げ、やがて“大工・鳶・左官”は人々に一目おかれる花形の職業となりました。
しかし花形と呼ばれる“大工・鳶・左官”という職業も一人前になるには十年以上かかると言われています。しかし一人前の職人になれば、大工の賃金は1日あたり540文だったといいますから、一般町民の賃金300文と比べると相当の高収入です。
そんな事情もあって“宵越しの銭はもたねえ”などというきっぷの良い気質もうまれてきたのでしょう。
上掲は職人たちが小さな坩堝を使って硝子を作っている様子が描かれています。江戸の発展に大きく影響したのは、多くの職人達の存在です。
享保15年(1730年)、将軍徳川吉宗が長崎奉行にビードロの製法を上申させました。そしてこのように職人たちがそれを世間に広めていったのです。
この絵に描かれているように、自宅などの屋内に見世と呼ばれる作業場をもち、そこで仕事をする職人のことを「居職」といいました。前述の“大工・左官・鳶”など主に建設業に従事する職人は「出職」と呼ばれました。
女たちの働きぶりもちろん女性もどんどん働きにでました。武家や商家のお金持ちの娘でもない限り、働かなければ食べていけないからです。上掲の絵に描かれた髪結の女性の眼差しには、仕事に対する真剣さが見てとれます。
独身男性の多かった江戸時代は、そのような男性の汚れ物を洗う仕事などもありました。女性たちは、どんな些細なことでもお金を稼ぐために働きました。
この絵は出産の様子を描いています。妊婦は子どもを産む時、座った姿勢で出産したそうです。この絵の中にも女中として働いている女性の姿が3人ほど見られます。
「婚礼錦貞女車 初産」(部分) 鈴木春信 画:シカゴ美術館所蔵
壮絶すぎる…江戸時代の出産が超命がけ。恐るべし江戸時代の母ちゃん!ここで赤ちゃんを取り上げているのが“お産婆さん”であり、江戸時代は「取揚婆」と呼ばれました。“お産婆さん”は女性ならではの仕事でもありますね。
神社仏閣への参詣
ところで江戸時代の人々は大変信心深かったのです。人間生まれたからには、まずは健康であることが一番大切ですね。しかしこの時代まだまだ医療は未成熟であり、神にすがるという背景もあったでしょう。占いや願いなどの成就も含めて、人々はたびたび寺社を参詣しました。
寺社を参詣するのは早朝から遅くとも午前中までと言われています。朝早く気分も清浄な状態で、何を差し置いても“神仏”に対面するという気持ちが大切だと言われていました。
江戸には数多くの寺社があり、朝早くから参詣する人々の姿がみられました。
そのような寺社の近くには水茶屋という、お茶や軽食を振る舞う店が立ち並びました。上掲の絵は谷中の笠森稲荷門前の水茶屋「鍵屋」で働いていた看板娘の“お仙”です。
あまりの人気ぶりにグッズまで販売!江戸時代の超スーパーアイドル「笠森 お仙」の凄まじき人気っぷり! まさに江戸時代の素人アイドル!?その美貌に溺れる男が続出した水茶屋娘たちまとめ「江戸の三美人」の一人と言われ、鈴木春信をはじめ多くの浮世絵にその姿を描かれました。お仙見たさに笠森稲荷をちょっと参拝して、それからこの水茶屋に行くという不届き者も少なからずいたようです。
次回の(午前11時から午後12時頃)に続きます。
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan