日本橋、遊郭、長屋…浮世絵で見る、江戸時代を生きる人々のタイムスケジュールはどうなっていた?【その4】

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日本橋、遊郭、長屋…浮世絵で見る、江戸時代を生きる人々のタイムスケジュールはどうなっていた?【その4】

今まで“江戸を生きる人々の1日のタイムスケジュールはどうなっていたか”についてご紹介しています。今回は“午後13時~午後15時頃”についてです。

前回までの記事はこちらを御覧下さい。

日本橋、遊郭、長屋…浮世絵で見る、江戸時代を生きる人々のタイムスケジュールはどうなっていた?【その1】

日本橋、遊郭、長屋…浮世絵で見る、江戸時代を生きる人々のタイムスケジュールはどうなっていた?【その2】

日本橋、遊郭、長屋…浮世絵で見る、江戸時代を生きる人々のタイムスケジュールはどうなっていた?【その3】

昼八つ(午後13時から午後15時頃)

大工上棟之図 画:香蝶楼国貞 国会図書館デジタルコレクション

江戸っ子名所へ繰り出す

名所江戸百景 千駄木團子坂花屋敷 画:歌川広重

江戸の文化を庶民達が作り出して行った頃、江戸では江戸中の名所旧跡に出かけることが流行しました。

千駄木の団子坂には多くの植木屋が集まっていました。嘉永5年(1852)に団子坂に住む植木屋・楠田宇平次が花屋敷を開き、そこは池を設けた庭園で新名所となりました。その広さは三千坪あったそうで、全てを見るのに半日はかかり大勢の人で賑わったそうです。

上掲の絵はその様子を描いており、花々の下や池のそばまで人が見物を楽しんでいるのがわかります。

名所江戸百景 千駄木團子坂花屋敷(部分) 画:歌川広重

絵の上部の、庭園から階段を登った崖の上にある建物は「紫泉亭」という茶亭です。当時としては珍しい三階建で渡り廊下でつながっていたそうです。そしてなんと“、露天風呂”があり景色を堪能することが出来たというから驚きです。

風俗吾妻錦絵 百種接分菊 画:一勇斎国芳

また江戸の人々は庭園などで四季の花を愛でることを好み、自分の身近に好みの鉢植えを置いて楽しんでいました。

江戸の中期頃から巣鴨で植木屋が“菊”で人物やさまざまな動物の形を作り、それを見世物としたことから「観菊」が流行しました。

風俗吾妻錦絵 百種接分菊 画:一勇斎国芳(部分)

上掲の絵は、染井の植木屋・今右衛門が、太さ二、三寸余りの一本の台木に、百種もの菊を接ぎ木して咲かせたもので、それぞれの菊に趣のある名をつけ短冊に記して下げたのです。その菊の評判を聞いた人々が集まった様子を描いています。

名所を作っていく側とそれを見物に行く側、その相乗効果で江戸は経済的にも文化的にも急速に栄えていったのです。

子供の遊び声が路地にあふれる

幼童遊び子をとろ子をとろ 画:歌川広重(3代)東京都立中央図書館特別文庫室所蔵

午後2時頃、寺子屋は終わり子供たちは家に帰ります。このころから子供たちの声が路地にひびきはじめます。

上掲の絵に描かれているのは「子とろ子とろ」という、いわゆる“鬼ごっこ”のような遊びです。一人が鬼になり、もう一人が親になります。他の子供たちは“子”となり、“親”の後につき、前の子の腰をつかまって連なります。親は手を広げたりして子を守り、鬼は子の最後尾の子供に触ろうとする遊びです。

実はこの絵は“子供の遊び”に「戊辰戦争」の風刺画を隠したものでもあるのですが、今回は“遊び”の例としてご紹介するにとどめます。

智恵競幼稚双六(部分)_東京都立中央図書館特別文庫室所蔵

この絵はもともとは双六の一部ですが、江戸時代も現代も基本的には同じような遊びをしていますね。テレビゲームなどのオモチャがなかった分、体を使った遊びが多かったのかもしれません。

歌舞伎芝居小屋の熱気は今や最高潮

大江戸しばゐねんぢうぎやうじ「場釣り提灯」画:安達吟光 国会図書館デジタルアーカイブより

江戸文化を大きく担っていたものとして、歌舞伎芝居が挙げられられます。歌舞伎は当時の時流をいち早く芝居に取り入れ、音楽や踊り衣装など今の言葉で言えば“イケてる”もの、時代の最先端を表現していたのです。

当時の歌舞伎は上映時間が長く、しかし芝居小屋はほとんど吹き抜けのような作りとなっていました。

そのため歌舞伎を観に行く場合は朝のまだ暗い内に、歌舞伎小屋の周りにある“芝居茶屋”で飲食をしながら芝居が始まるのを待ったのです。

大江戸しばゐねんぢうぎやうじ 大箱提灯 画:安達吟光 国会図書館デジタルアーカイブより

ここに芝居茶屋の部屋の中にいる中堅町人と芝居茶屋の女中が描かれています。このように歌舞伎を度々観に行くことが出来る客というのは、高い木戸銭を払い、歌舞伎を観に行くたびに着物を新調することができるような、お金持ちの大商人や役人たち・休暇中の大奥の女中などでした。

一般庶民はそうそう歌舞伎を観ることなど出来ませんでしたが、何ヶ月も貯金をして、浮世絵で見る贔屓の役者を観に行こうとしたのです。

そのような様々な人々が楽しむ歌舞伎の芝居も日没までには終わります。朝から芝居を楽しんで、今が芝居の最高潮となるのです。

江戸の相撲に熱狂する男達

勧進大相撲土俵入図 画:一恵斎芳幾 国立国会図書館デジタルコレクション

日本の「相撲」の起源は古事記や日本書紀にある神話から始まり、宿禰(すくね)・蹶速(けはや)の天覧勝負の伝説などが挙げられますが、相撲はその年の農作物の収穫を占う祭りの儀式として、毎年行われてきました。これが後に宮廷の行事となり300年続くことなります。

織田信長も相撲を愛好し、近江の安土城などで各地から力士を集めて上覧相撲を催し、勝ち抜いた者を家臣として召し抱えました。

江戸時代、浪人や力自慢の者の中から相撲を職業とする人たちが現れ、全国で相撲が行われるようになり、江戸時代中期には定期的に相撲が興行されるようになったのです。

やがて人気力士は相撲を好む大名家に召し抱えられるようになりました。彼らは、本場所で勝利することによって大名の家名をあげる役割を担うようになったのです。

上掲の絵に見るように、観客席は桟敷席と土間席に分けられ、江戸庶民の大半を占めた中下層の商人および職人は比較的値段の安い土間席の木戸銭を支払い観戦しました。

大相撲の1日の入場数は約10,000人と言われ、桟敷席の定員は1,200人、土間席には桟敷席の人数は約8,000人ほどの人が観戦したという大変な人気でした。

江戸両国回向院大相撲之図 「桟敷・取組・地取図」 画:歌川国郷 国立国会図書館デジタルコレクション

相撲見物,歌舞伎芝居,吉原遊郭は江戸の三大娯楽と言われ、基本的に江戸の大相撲は春・秋の2場所で合計20日間の興行が行われます。

江戸両国回向院大相撲之図 桟敷・取組・地取図(上部分) 画:歌川国郷 国立国会図書館デジタルコレクション

上掲の“江戸両国回向院大相撲之図「桟敷・取組・地取図」”の最上段に描かれているのは右上に“桟敷”と描かれているように、相撲観戦中の桟敷席の様子です。もう狂喜乱舞といった状態です。

力士の取り組みがはじまると観客は相撲に没頭し、手に汗を握って贔屓の力士に声援を送りました。

行司の軍配が上がると場内に“江戸湾がひっくり返るほどの歓声が起こった”とも言われました。そして祝儀代わりに観客はものを土俵めがけて投げ入れました。特に自分の着ている着物を投げ入れる人が多く“着物の花をちらす”とも言われました。

本当に江戸の人々が大相撲観戦をいかに楽しみにし、愛していたことがわかりますね。ちなみにこのような状態なので女性の観戦は危険なので禁止だったようです。

江戸両国回向院大相撲之図 桟敷・取組・地取図(下部分) 画:歌川国郷 国会図書館デジタルオンライン

相撲小屋の内側での取り組みとは別に、相撲小屋の外でまだ相撲興行に出ることのできない力士が“稽古を観衆に披露する”ことを「地取」と呼びました。

上掲の“江戸両国回向院大相撲之図「桟敷・取組・地取図」”の最下段に描かれているのは、この「地取」の様子です。

「地取」を見物することに木戸銭はいらなかったため、貴賎を問わず楽しめるものでした。相撲小屋に入場して取り組みを楽しむ経済的余裕がない庶民の中にはこの「地取」を目的に興行の開催場所まで出かけた人もいたのです。

渡し船で帰途につく

名所江戸百景 鎧の渡し小網町 画:歌川広重 国会図書館デジタルオンライン

江戸時代、人の移動手段は基本的には徒歩だったので、“渡し船”は江戸庶民の便利で重要な交通機関でした。
朝まだ暗いうちから働き始める江戸の町では、午後3時頃には帰途につこうとする人がではじめる時刻です。

次へ続きます。

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