黄金の“70年代アイドル”を総直撃<アグネス・チャン>日本語の歌詞は全て「丸暗記」で克服できた

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黄金の“70年代アイドル”を総直撃<アグネス・チャン>日本語の歌詞は全て「丸暗記」で克服できた

 71年に香港で芸能界入りし、翌72年に日本でデビューしたアグネス・チャン(65)は、ミニスカ姿が似合う妖精だった。異国の地で過ごしたアイドル時代を、自身の言葉で振り返る。

 香港から来日した当時は、日本語ができなくて、ちょっと苦労しました。日常の習慣にはけっこう早く慣れまして、例えば家に入る時に靴を脱ぐとか、挨拶は握手ではなくて、お辞儀をするとか。

 だけど、食べ物と言葉には苦労しました。香港では食べ物は温かいものが多く、ナマ物が苦手なので、お寿司や刺身は食べられませんでした。

 それと仕事上、言葉ができないと、司会者から何を言われているのかわからないのは困りました。

 それでも歌詞は丸暗記なので、はっきりと意味はわからなかったですけど、大好きな歌を歌っている時は幸せでした。ただ、家に帰ると一人ぼっちなので、ホームシックになったこともあります。

 その当時は毎日のように歌番組がありまして、学校が終わるとテレビ局に直行です。時間がないので雑誌の撮影はテレビ局の廊下で行います。次から次へと、いろんなカメラマンから「はい笑って!」って言われた思い出があります。それで本番前に疲れてしまう時もありました。

 実は写真を撮られるのが苦手だった私は、自然な笑顔を作るのが難しかった。でもいつも「アグネスは笑顔が可愛いよ」と言われて、そのうちに「はい笑って!」って言われると、笑顔ができるようになりました。

 当時は毎日が忙しくて、いつも「病気しないように」と寝る前には祈ってました。夜中の2時3時に帰宅して、朝の6時にスクールバスが迎えに来るので、ゆっくり寝る暇がなかったんです。

 17年に亡くなられた平尾昌晃先生は、香港から私をスカウトしてくれた恩師です。先生はたくさん曲を書いてくれました。いちばん大好きな歌は「草原の輝き」(73年)です。明るいメロディーで、新人賞の後押しにもなったヒット曲です。74年には、選抜高校野球の行進曲にも選ばれたんですよ。

 もうひとり、松本隆先生もたくさん詞を書いてくれました。その中でも「ポケットいっぱいの秘密」(74年)がいちばん印象的でした。先生にとっても、歌謡曲の歌詞を書くデビュー作でした。

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