「君死にたまふことなかれ」ーー死が身近だった当時とそうでない現代

| 心に残る家族葬
「君死にたまふことなかれ」ーー死が身近だった当時とそうでない現代

「君死にたまふことなかれ」

与謝野晶子がこの詩を発表したのは、1904年(明治37年)9月の明星誌である。旅順攻囲軍の中にいた与謝野晶子自身の弟を思って書いた詩である。死の副題には“旅順の攻囲軍にある弟宗七を歎きて”というものであった。“武器を持って人を殺せというのは、親の教えでも商家の教えでもない。天皇がそういうとも思われない。旅順が滅びてもよい。父を亡くしたばかりの母の嘆き、残された新妻を思えば、自分ひとりの身ではないのがわかるだろうよ。弟よ、必ず死なないでいよ”という内容である。

■当時では到底理解されなかった

国のために死ぬことは名誉であると言われていた当時の日本人の価値観からすると到底受け入れられない詩であった。実際に“皇室中心主義の眼を以って、晶子の詩を検すれば、乱臣なり賊子なり、国家の刑罰を加ふべき罪人なりと絶叫せざるを得ざるものなり”と歌人の大町桂月に批判されている。

当時の絶対的権力は軍にあり、その軍の教えに背くことは出来ず、皆が下を向いて頷く時代である。恐怖政治と洗脳を繰り返し国民を支配していた。

■しかし核心をついていた

反戦の詩を読んだ与謝野晶子はとても勇敢だ。そして、大切な人が死んでほしくない。そう思う気持ちは人間らしく純粋な気持ちである。肉親が次々と戦火に散っていく中、誰しも死んでほしくない。戦地へ行かせたくないと心ではそう思ったのではないだろうか。反論できる状態でない社会にただ従うしかなかった。この詩は批判をされたが、当時の日本人にとって核心を突いたものであっただろう。

■死ぬという行為

死ぬという行為は恐怖である。死を避けようする事は生物として当然のことである。しかし、避けられない環境下で死ぬことは美徳であるといわれ、名誉だ立派だとかの理由をつけられる。しかし、それだけでは死に対する恐怖を完全には押さえつけることはできないだろう。大切な人の為に、これからの未来あるもの達のためにと思うことで、戦地へと行くことができたのではないだろうか。従っては、日本の為という考えにつながるであろう。

私たち現代を生きる者たちには“生きている”という行為が当たり前となっている。ほんの77年前では“死んでしまう”ということが日常になってしまっていた。まさに地獄絵図に書かれている光景が自分たちの目の前にあった。生きるという気持ちを否定され、死ぬことを強制された時代に、一人の詩人が人間として当たり前の気持ちを詠った事に敬意を表する。

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