源頼朝の寵愛を受けるも、北条政子を恐れて……大進局(だいしんのつぼね)が歩んだ人生とは?

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源頼朝の寵愛を受けるも、北条政子を恐れて……大進局(だいしんのつぼね)が歩んだ人生とは?

大きな話題となった2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』。源頼朝の女性好きの面が垣間見えるシーンもいくつかありましたよね。

頼朝に愛された女性のなかではあまりめだちませんが、彼の寵愛を受け、子どもをもうけた女性がいました。その名も、大進局(だいしんのつぼね)。今回は、そんな彼女の人生に迫ってみたいと思います。

大進局の生没年ははっきりとわかっていない

大進局は平安時代末期から鎌倉時代にかけて生きた女性です。しかし、生没年は詳しくわかっていません。鎌倉幕府の御家人・常陸入道念西(ひたちにゅうどうねんさい)の娘だとされており、常陸入道念西は源為義の娘が産んだ、伊達朝宗を指すとされています。

戦国時代の伊達政宗で有名な、伊達宗家の初代当主になったと言われる人物です。

頼朝の寵愛を受ける

大進局は御所勤めをしていました。御所に上がったのもいつからというのはわかっていません。そのうちに頼朝から寵愛を受けるようになりました。そして、文治2年(1186年)2月には、頼朝の三男である貞暁(じょうぎょう/ていぎょう)を出産します。

この出産も、北条政子に気兼ねし、吾妻鏡によれば長門景遠(加藤景廉の一族)宅で行われています。

北条政子は「はなはだ不快」と激怒

大進局の出産により、頼朝との仲が北条政子の知られるところとなりました。政子は「はなはだ不快」とし、本来行われるはずの出産の儀式をすべて省略。

それでも政子の怒りが収まらなかったことから、頼朝は大進局に京から近い伊勢の所領を与え、上洛を促します。

貞暁は仁和寺へ

貞暁は仁和寺に入れられ、法眼隆暁の弟子となりました。出家後は一切政治にはかかわらなかったといいます。その後、46歳で母の大進局に先立って死去。大進局は当時出家して禅尼となっていましたが、息子の死を深く嘆いたとされています。

大進局は源行家の子・行寛法印のサポートを受けて、摂津で余生を送りました。

いかがでしたか?この記事が、みなさんが少しでも日本文化や歴史の面白さに興味を持つきっかけになれば嬉しいです。

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