わずか5日間で全員が戦死。明智光秀と共に本能寺の変を成した5人の重臣「明智五宿老」とは?

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わずか5日間で全員が戦死。明智光秀と共に本能寺の変を成した5人の重臣「明智五宿老」とは?

明智光秀の腹心とされる5名の家臣は、「明智五宿老」と呼ばれ光秀の元で活躍した。【後編】では、本能寺の変から山﨑の戦いにおける五宿老の活動を振り返りたい。

【前編】の記事はこちら↓

明智光秀と共に戦死!「本能寺の変」を成した5人の重臣”明智五宿老”とは?【前編】

本能寺の変

1582年6月夕刻。光秀は毛利氏と対峙していた羽柴秀吉の援軍のため、1万3000の兵を率いて京都の丹波亀山城を出立。亀山に近い場所で軍議を開き、重臣である五宿老に「打倒・信長」を告げたといわれている。

21日早朝。五宿老は光秀と共に本能寺を襲撃。信長と息子の信忠を横死させた。五宿老の1人である明智光忠は、織田軍の反撃によって負傷したという。

信長の死から山﨑の戦いへ

信長を討った光秀は、京都を中心に自身に呼応する大名を集める地盤固めに奔走した。しかし、予想以上の早さで京都に引き返してきた羽柴秀吉軍と京都の山﨑で対峙することになる(山﨑の戦い)

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