藤原道長(柄本佑)の死によって再び世が乱れ、嵐(武士の世)が来ることを予見したまひろ(吉高由里子)。颯爽と駆け去っていく双寿丸(伊藤健太郎)らの後ろ姿が印象的でした。
……令和6年(2024年)NHK大河ドラマ「光る君へ」もついに終わってしまいましたね。平安時代の人々をもっと観ていたかったのですが、残念でなりません。
色々思う所はありましたが、最終回放送「物語の先へ」も気になるトピックを振り返っていきましょう!
最終回放送「物語の先へ」関連略年表予想通り、最終回は一気にすっ飛ばしましたね。
藤原顕光(宮川一朗太)の引退や藤原彰子(見上愛)の成長、そして身近な者たちの死などが一気に詰め込まれた印象です。
まひろのモデルになった藤式部(紫式部)については、とっくに亡くなっている可能性もあるため、劇中のエピソードはほぼフィクションと思って構いません。
フィクションと言えば、源倫子(黒木華)の振舞いを見て、不倫に対する怒りを新たにしました。
当時は婚外性交渉がどのくらい当たり前だったかはさておき、妾になる(正室の許可が必要なら許可を求める)など筋の通し方はあるはずです。
しかし当の倫子が胸に収めた以上、これより言うことはありません。
道長の闘病記録万寿4年(1027年)12月4日に道長は世を去りましたが、劇中では何だか穏やかな感じでした。
実際はどんな感じだったのか、ここでは藤原実資『小右記』などから、道長の闘病記録を見てみましょう。
11月10日 寝たきりのまま汚穢。ただし意識は正常 11月12日 沐浴して念仏を唱える。周囲が動揺する 11月21日 下痢が激しく、背中の腫物が悪化する 同日 藤原彰子と藤原威子が見舞うも、汚穢のため面会謝絶。 11月25日 阿弥陀堂の正面に移される。 11月30日 背中の腫物について、鍼治療が決定される。 12月2日 背中の腫物に鍼治療を実施。激しく苦しむ。 12月4日 寅刻(午前3~5時)に入滅する。かねてから道長は、飲水の病(糖尿病)で昏倒したり目が見えなくなっていたりしていました。
汚穢(おわい)とは文字通りケガレのことで、ここでは排泄物等を指します。
11月10日に汚穢があってから、沐浴したのは2日後。その間さぞ気持ち悪かったでしょうが、そんな余裕さえなかったようです。
娘たちが見舞いに来ても面会謝絶、いよいよお迎えも近くなり、自ら建立した法成寺に移動しました。
そして背中の腫れ物を手術したものの、苦悶の末に世を去ります。
怨霊となった藤原顕光劇中では「よきにはからえ」と居眠りばかり、藤原頼通(渡邊圭祐)から引導を渡されてしまった藤原顕光(宮川一朗太)。
恐らくは現代政治家に対する風刺や願望を描いたのでしょうが、実際に藤原顕光がそのような体たらくであったという記録はありません。
ただ道長はじめ公卿たちから無能呼ばわりされて(日記に書かれて)いたのは確かです。
しかし本当に単なる無能者であったなら、道長政権下で20年以上も大臣職にしがみつけはしなかったでしょう。
敵がお世辞を言わないのは古今東西どこも同じですから、気に入らない相手について重箱の隅をつついた結果が今日の評価につながったものと考えられます。
ちなみに藤原顕光は治安元年(1021年)5月25日に薨去しましたが、それは娘の藤原延子(山田愛奈)を喪った失望からでした。
藤原延子は小一条院(敦明親王。阿佐辰美)に入内していましたが、道長はそれに競わせるよう娘の藤原寛子(母は源明子)を入内させます。
こうなると道長への遠慮から小一条院は寛子ばかり寵愛し、延子は実質的に捨てられてしまいました。
延子は失意のうちに薨御。その怨みから、藤原顕光と延子は怨霊となって寛子はじめ道長一族に祟りをなします。
世の人々は「悪霊左府(左府は左大臣の意)」と呼んで恐れ、また同情したのでした。
ちぐさ(菅原孝標女)について日本史上でも有数の『源氏物語』ファンとして知られる文学オタク・菅原孝標女(たかすえの娘)。本作ではちぐさという名前になっています。
まひろがその作者であるとも知らず、滔々と『源氏物語』を評論する図は、何とも微妙な気持ちでした。
もし事実を知ったら、感激と恥ずかしさのあまり卒倒してしまうのではないでしょうか。
なんせ『源氏物語』全巻を与えられた時点で「后の位も何にかはせむ(皇后にしてくれると言われても、この喜びほとではない)」と喜んだくらいですから……。
それにしても、まひろも人が悪いですね。いや、熱烈に慕われても面倒くさいでしょうから、やはり言わなくて正解だったのでしょう。
ちなみに、まひろとちぐさが実際に会った記録はないし、多分会ってもいないと思います。
ただ菅原孝標女は寛弘5年(1008年)生まれなので、万寿2年(1025年)時点で18歳。そこまでまひろが生きていれば、物理的に会うことは不可能ではありません。
とりあえず「もし菅原孝標女が藤式部(紫式部)に会ったらどうなるか」という平安文学ファンの密かな願望を叶えてくれる一幕でした。
ききょう(清少納言)の晩年は?清少納言と紫式部、もし実際に会っていたら、仲良くなれただろうか(イメージ)
ちぐさと入れ替わりにまひろ邸を訪れたのは、すっかり疎遠どころか険悪になっていたききょう(清少納言。ファーストサマーウイカ)。お互い気力が萎えたからか、お互いの偉業を讃え合う展開となりました。
清少納言の没年については諸説あり、おおむね万寿2年(1025年)ごろと言われているようです。
かつて紫式部が日記で「あんな意識高い系を気取って中身のない女が、ロクな末路をたどるまいよ(意訳)」とこき下ろした清少納言。
そんな評価(嫉妬?)は少なからず支持を集めたようで、「女のくせに……」という人々の嫉妬や偏見が、清少納言の晩年や末路を様々に描き出しました。
内裏を去った清少納言がすっかり落ちぶれて人々の笑いものとなり、哀れに寂しく死んでいく……まさに紫式部が書いた(願った?)通りのストーリーです。
女のくせに才能をひけらかして男を見下した報いを受けるがいい……と言わんばかりですが、それらの説話には特に根拠もありません。
むしろ旧主の脩子内親王(海津雪乃)や藤原隆家(竜星涼)、子供の橘則長(のりなが)や小馬命婦(こまのみょうぶ)らが健在であり、彼らが揃って清少納言を見捨てるとは思えません。
更にはかつて交流していた藤原斉信(金田哲)や藤原行成(渡辺大知)、藤原公任(町田啓太)らも健在ですから、彼らもまた必要ならば清少納言を支援したことでしょう。
清少納言が穏やかで幸せな晩年を送ったことを願うばかりです。
東国の反乱(平忠常の乱)について時は長元元年(1028年)6月、安房守である平維忠(これただ)が平忠常(ただつね)の襲撃を受け、ついには焼き殺される事件が発生しました。後世に伝わる平忠常の乱が幕を開けたのです。
道長の死後およそ半年、その死と直接的な因果関係はともかく、貴族の世に翳りをもたらす一大事でした。
反乱は燎原の炎が如く房総半島一帯に広がり、それまで虐げられてきた武者たちはその怒りを体現します。
反乱は忠常が降伏する長元4年(1031年)春まで続き、忠常を降伏せしめた追討使の源頼信(よりのぶ。源頼朝の7代祖先)が坂東平氏を従え、河内源氏が東国に勢力を拡大する契機となりました。
この反乱で房総半島一帯は大いに荒廃したと伝わります。
例えば上総介であった藤原辰重(ときしげ)からの報告では、それまで22,000町あった上総国(千葉県中部)の作田は、反乱によって何と18町まで減ってしまいました。
おのれ忠常……と思ったかも知れませんが、その被害はほとんど官軍による収奪の結果だったとか(※『左経記』長元7・1034年10月24日条)。
遠征している都合上、どうしても補給が現地だのみだったのでしょう。領民としてみれば、たまったものではありませんね。
貴族の世が完全に終わるまで、嵐は当分続くのでした。
次回作「べらぼう~蔦重栄華之夢噺~」は1月5日(日)から!あれだけ楽しみにしていた平安大河ドラマ「光る君へ」、何だか気づけばあっという間でした。
しばらくは平安時代の余韻を味わうことにしましょう。次の平安大河は何年後でしょうか。
さて、令和7年(2025年)1月5日からは「べらぼう~蔦重栄華之夢噺~」が始まります。
蔦重こと蔦屋重三郎(つたや じゅうざぶろう)の生涯を、横浜流星さんが熱演してくれるでしょう。
吉原の子として生まれた重三郎が「江戸のメディア王」となるまでがイキイキと描かれます。蔦屋重三郎?誰それ?という方も、この機会にご覧下さい!
来年の話をすると鬼が笑うと言いますが、みんなで一緒に笑いましょう!
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