天明6年(1786年)に田沼意次が失脚し、代わりに老中となった松平定信。ついに積年の怨みを晴らす時がやってきました。
そんな松平定信は寛政の改革を推進したことで有名ですね。
享保の改革や天保の改革と並ぶ「江戸の3大改革」に数えられる寛政の改革とは、一体何だったのでしょうか。
今回は寛政の改革について、わかりやすく紹介したいと思います。
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寛政(1789〜1801年)の間ずっと行われていた訳ではありません。
ちなみに蔦屋重三郎が亡くなるのは寛政9年(1797年)。寛政の改革は、彼の晩年に大きな影を落とすことになります。
寛政の改革は何を目的とした?失脚したものの、田沼意次の政策は少なからず引き継がれた(画像:Wikipedia)
寛政の改革には、大きく以下の狙いがありました。
幕府財政の建て直し 幕府の権威回復 社会秩序の維持 農村の復興支援そのためには田沼派の人物を幕閣から一掃し、顔ぶれを刷新する必要があります。そこで三浦庄司や松平康福などが次々と失脚していきました。
しかし実際の改革は田沼政権を踏襲した政策も多く、ただ政権が代わっただけという見方も出来なくはありません。
寛政の改革における主要政策は?寛政の改革では、目的達成に向けた各種の政策が打ち出されます。
倹約令(贅沢禁止令) 棄捐令(旗本や御家人の借金帳消し) 猿屋町会所(札差への低金利融資) 帰農令(出稼ぎ者を農村へ) 囲米(米穀備蓄による米価調整) 農村支援(負担軽減、児童手当) 都市整備(無宿者を収容) 貧困対策(町内費用を積立て) 思想統制(朱子学のみを許可) 出版規制(政治批判や風刺表現を摘発) 文武奨励(幕府草創の精神を取り戻す)こうした政策によって、幕府の財政は一時的に黒字化しました。
また農村復興や都市秩序の回復に一定の効果をもたらし、一説には幕府の崩壊をわずかに延命したとも言われています。
寛政の改革がもたらした副作用?少しくらい汚れていた方が、池の鯉も居心地がよいのかも(イメージ)
白河の 清きに魚も 住みかねてもとの濁りの 田沼恋しき
【歌意】白河(松平定信)の流れがあまりにも清らか過ぎて、少しくらい濁って(政治腐敗や汚職が横行して)いても、田沼(政権時代)の方が居心地よかったなぁ……。
これらは寛政の改革に対する風刺として詠まれた狂歌です。
幕府の権威を回復しようと躍起になるあまり、思想統制や表現規制を強めすぎた結果、独裁国家のようになってしまったのでしょう。
またあまりにも厳格な緊縮財政は社会的な軋轢や閉塞感をもたらし、改革は人々に受け入れられませんでした。
結局のところ、寛政の改革は長期的な安定を見ることなく、松平定信は失脚してしまうのです。
終わりに文武と言って飛び回り、人の生き血を吸う蚊。まるでお上のようである(イメージ)
世の中に 蚊ほどうるさき ものはなし ぶんぶ(文武)といふて 夜も寝られず
【歌意】世の中で最もうるさいのは蚊である。ブンブン鳴いて(お上から文武に励めとうるさく言われ)、夜も寝られない。
今回は松平定信が主導した寛政の改革について、わかりやすく紹介してきました。
改革は蔦屋重三郎ら文化人の表現活動にも重圧を加え、仲間たちも次々と筆を折らざるを得なくなってしまいます。
果たしてNHK大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」では、寛政の改革そして蔦重の晩年がどのように描かれるのか、注目していきましょう。
※参考文献:
竹内誠『寛政改革の研究』吉川弘文館、2009年6月日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan