来年1月4日(日)放送開始のNHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』の主人公は、兄の秀吉(演:池松壮亮)でなく弟の秀長(演:仲野太賀)です。
そして、NHKの公式ホームぺージには秀長を「兄の天下取りを一途に支え続けた『天下一の補佐役』といわれている。」と記されています。
このドラマの核心であり、物語の主題であると『天下一の補佐役』について、豊臣秀長がそのように称される所以を探っていきましょう。
【前編】の記事はこちら↓
大河『豊臣兄弟!』主人公・豊臣秀長(仲野太賀)が「天下一の補佐役」と称されていた理由【前編】※合わせて読みたい記事:
大河『豊臣兄弟!』主人公・豊臣秀長以外は皆殺し…秀吉が兄弟姉妹に課した残虐な仕打ちの数々 2026年大河【豊臣兄弟!】主人公・豊臣秀長(仲野太賀)をとりまく正室や側室、妾たちの顔ぶれ紹介 失態に対した者に苛烈な処罰を科した秀吉豊臣秀吉と秀長兄弟を語るうえで、まず押さえておきたいのは、「内々の儀は宗易(千利休)、外様のことは宰相(秀長)存じ候」とまで言われたように、秀吉が異母弟である秀長を心から信頼していたという点です。
そのため秀長は、大名統制をはじめとする豊臣政権の中枢を担う最重鎮として重きをなしました。しつこいようですが、秀吉がここまで深い信頼を寄せた相手は、秀長ただ一人と言っても過言ではないのです。
秀吉の人物像を語る際、しばしば「人たらし」と称され、温和でユーモラスな面が強調されます。しかし一方で、怒らせれば何をしでかすか分からないほどの冷酷非情さも備えていました。
その代表的な例として、大坂城内で側室・淀殿(演:井上和)とその女房衆が多数の男や僧侶を招き入れ乱行に及んだことが発覚した際、女房衆のみならず男や僧侶までことごとく斬首に処した事件が挙げられます。ほかにも、聚楽第の城門に秀吉を非難する落書が貼られた際、犯人を捕らえられなかった門番衆の目鼻を削いだうえ逆さ磔にして処刑しています。
このように、失態を犯した者への処罰はきわめて苛烈でした。実は秀長もまた、1589年(天正16年)に配下の吉川平介が熊野の木材2万余本を伐採し、大坂で販売して得た代金を着服したことが露見し処刑された際、秀吉から厳しく監督責任を問われています。
この時、秀吉はよほど腹に据えかねたのか、最重鎮である秀長でさえ翌年正月の礼への拝謁を許しませんでした。ただし、さすがにそれ以上の咎めはなかったようです。それは心底、秀長のことを大切な存在とみなしていた証と考えて間違いないでしょう。
上級武家にとって弟は脅威になりかねない存在もし秀吉が秀長を単なる弟としてしか見ていなかったなら、何かの失態に乗じて除かれていた可能性もあったでしょう。というのも、大名など上級武家の世界では、兄にとって弟はしばしば排除すべき脅威とみなされていたからです。
武家社会は家父長制を基盤として成立しており、家のトップはただ一人というのが原則でした。権力はその人物に集中し、それゆえトップダウン型の管理体制が整えられます。しかし、家中にトップである兄と同等、あるいはそれ以上に有能な弟がいれば、この原則が揺らぎかねません。こうした構図が、兄弟間の権力争いをしばしば引き起こしたのです。
歴史を振り返れば、織田信長と信行、徳川家光と忠長、源頼朝と義経、伊達政宗と小次郎、大友宗麟と塩市丸など、例を挙げればきりがありません。彼らは容赦なく弟を死に追いやっています。
その一方で、兄を一途に支え続けた弟というのは極めて少なく、武田信玄と信繁、そして豊臣秀吉と秀長が代表的な例といえるでしょう。こうした兄弟関係はきわめて特異で、彼らは一対一の深い信頼で結ばれ、互いを心の底から信じていたのです。
以前、Japaaanの記事(「大河『豊臣兄弟!』主人公・豊臣秀長以外は皆殺し…秀吉が兄弟姉妹に課した残虐な仕打ちの数々」)でも紹介した通り、秀吉は天下統一後、大坂城に自分の弟だと名乗って訪ねてきた若者を、面会すらせずに斬首しています。
この若者が本当に弟であったとしても、秀吉にとっては正体の知れない存在であり、いつ牙をむくか分からない危険人物と見なしたのでしょう。秀吉の行為は、単なる残虐性によるものではなく、「家」を守るために下した政治的判断だったのです。
秀長は歴史を劇的に変え得る重みをもった人物秀長が豊臣政権を支える『天下一の補佐役』と称された背景には、当時の上級武家ではきわめて珍しい、兄弟間の深い信頼関係がありました。言い換えれば、それは一蓮托生ともいえる結びつきであり、その根底には、彼ら兄弟が共有していた出生にまつわる秘密の存在も影響していたのかもしれません。
いずれにせよ、秀吉にとって秀長は、単に頭の切れる有能な弟にとどまらず、「決して自分を裏切らない」と確信できる、唯一無二の存在だったのでしょう。
歴史に「もし」は禁句といわれます。しかし、もし秀長があと10年その生を永らえていたなら、日本史は大きく変わっていたかもしれません。
秀長は1591年(天正19年)、50〜52歳で没しました。その後の豊臣家には、1593年(文禄2年)の豊臣秀次一族の粛清、1592年(天正20年)から1597年(慶長2年)にかけて断続的に続いた朝鮮出兵、さらに1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いなど、重大な事件が続きます。
もし秀長が存命であったなら、秀次粛清や朝鮮出兵はともかく、秀吉亡き後に朝鮮出兵の影響から分裂していく豊臣家中を、まとめあげることができた可能性があります。
浮世絵「太平記拾遺 四 大和大納言秀長」(Wikipedia)
そうなれば必然的に、関ヶ原の戦いの帰趨もまったく異なるものとなっていたかもしれません。豊臣秀長とは、単なる秀吉の「補佐役」にとどまらず、歴史の流れを劇的に変え得るほどの重みをもった人物だったのです。
こうした観点から『豊臣兄弟!』をご覧いただければ、物語をより深く味わっていただけることでしょう。
※参考文献
和田裕弘著『豊臣秀長-天下人の賢弟の実像』中公新書刊
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