縄文人の住まいと聞くと、誰もがあの大きな屋根で覆われた「竪穴住居(たてあなじゅうきょ)」を思い浮かべると思います。実は縄文時代だけではなく平安時代まで、庶民の住まいとして使われた超ロングセラー住宅でした。
そこには、現代人が驚くほどの知恵と「高機能」が詰まっていました。
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縄文人の住まいは「竪穴住居」だけではなかった!縄文人の住まいは、すべてが竪穴住居だったわけではありません。「平地建物(へいちたてもの)」と呼ばれる、地面と同じか、またはわずかに土を盛った程度の高さに建てた建物も使われていました。
「平地建物」はすでに約2万年前の旧石器時代には存在しており、神奈川県の田名向原(たなむかいはら)遺跡では、12本の柱穴や2カ所のたき火跡のある平地建物の跡(住居状遺構)が発見されています。
縄文時代になると、山形県の押出(おんだし)遺跡で、柱を立てず壁で屋根などの荷重を支える「壁建ち」と言われる構造の建物が登場します。この遺跡一帯は湿地で、地面に穴を掘ることが難しかったと推測されることから、環境に合わせて柱を立てない構造を生み出したのかもしれません。
このような例から、縄文人の住まいには「竪穴住居」と「平地建物」が併存しており、その土地の特性に合わせた工法が選択されていたことが分かっています。
竪穴住居ってなに?竪穴住居はその名のとおり、「地面に大きな穴を掘り、その底を床として柱を立て、柱を軸に何本もの木材を組んで骨組みを作り、屋根を葺く」、言わば「半地下」の住宅です。形や大きさ、柱の本数はさまざまで、柱には栗の木が好んで使われ、屋根には土や萱(かや)が葺かれていました。
その一見原始的に見える建物には、いくつものメリットがありました。
竪穴住居の最大の強みは、なんといっても「冬は暖かく、夏は涼しい」という点にあります。
・冬: 地面を50cm〜1mほど掘り下げて床にしているため、周囲の土が断熱材の役割を果たします。地中の温度は外気よりも安定しており、さらに「炉」で火を焚けば、熱が逃げにくく暖かさを保ちました
・夏: 夏場はひんやりとした地熱が伝わり、まさに天然のエアコン状態。直射日光を厚い屋根が遮ってくれるため、外が猛暑でも室内は驚くほど快適でした。
②「掘る」ことで材料をミニマムに地面を深く掘り下げることで、地面の側面がそのまま壁の役割を果たします。そのため、地上に露出する壁の面積を劇的に減らすことができました。
壁の面積を少なくし、屋根を地面のすぐ近くまで下ろす構造にすることで、柱に使う太い木材などの量を最小限に抑えることができたのです。
③ 驚きの「防虫・防腐」システム竪穴住居には炉が設けられ、多くの時間は火を炊ていたと考えられています。屋根の頂部には排煙や換気のための「換気口」があり、炉の煙は大きな屋根の隅々まで行き渡る構造になっていました。
この煙が、食料を燻して保存食を作ったり、柱や屋根などの防虫・防腐対策になったりしました。
穴を掘り、木を伐採し、組み立てる…。このどれもが、多くの人の協力なしでは成しえないことでした。「みんなで家を建てる」というプロセスは、集落のコミュニティの結束を強くするという大切なイベントでもあったと考えられます。
現代人も学ぶべき「知恵」の塊竪穴住居の耐久年数は、およそ10年~15年。人が住まなくなった建物は自然に朽ちて穴に埋まり、その跡地がゴミ捨て場として再利用されることもありました。
縄文時代には、竪穴住居のほかに「平地建物」、また倉庫として使われた「高床建物」も存在していましたが、あえて多くの人々が「竪穴住居」を選択をした理由。それは、自然のエネルギーを味方につけ、最小限の資材で最大の快適さを手に入れるという、究極の合理性にあったのです。
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