江戸時代といえば「封建社会」「家父長制」のイメージが強いですね。
よって、江戸時代の離婚となると、男性が三下り半を書いて突きつければ終わりという、男性優位のイメージが強いのではないでしょうか。
しかし実際には、離婚は現代よりもはるかに重い行為で、男性側にも非常に大きな責任があったのです。
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まず、理由もなく妻を追い出そうとすれば、夫は財産を没収され、さらに百敲きという苛酷な刑を受けました。
百敲きは裸にされて背と尻を打たれ、気を失えば水をかけられ、また打たれるという厳しい処罰です。もはや拷問ですね。これは離婚の乱用を防ぐための制度でした。
さらに、夫が勝手に離婚を進めると所払いとなり、住む場所を奪われることもありました。これだけでも、離婚が軽い行為ではなかったことが分かりますね。
結婚制度そのものにも、妻の権利を守る仕組みが多くありました。
まず結婚時の持参金は夫側に入りますが贈与ではなく、結婚継続の保証金のようなもので、離婚時には全額返還が必要でした。
嫁入道具も妻の私物で、夫が勝手に使うと横領罪になったのです。
そのため、夫が三下り半を出すことを考えると、普段から妻の物に触れないよう細心の注意を払うのが得策だったと言えます。塵紙一枚でも勝手に使えば訴えられ、百敲きか入牢となる可能性があったからです。
離婚は簡単どころか、夫にとっては大きなリスクを伴う行為だったのです。
三下り半の本当の役割ところでいわゆる三下り半は、離婚の証文として重要な役割を持っていました。この三下り半という書類の名称は知っていても、具体的にどのように機能していたかを知っている人は少ないでしょう。
そこには、妻が誰とどこで再婚しても夫は文句を言わないという文言が添えられており、これが離婚の証拠となります。
夫がこの証文を出さずに別の女性と再婚すると、前述のように所払いとなり、生活基盤を失うことになります。三下り半は、夫にとっても身を守るための書類だったのです。
一方で、貧しい長屋の女性は持参金や嫁入道具が少ないため、夫は比較的気楽に三下り半を出せたと考えられます。
それでも、夫が妻の物を無断で質入れした場合など、明確な理由があれば妻の実家から離婚を申し立てることができました。
夫の浮気や甲斐性なしという理由だけでは離婚は認められませんでしたが、財産に関する権利は強く保護されていたのです(もちろん、当時は「権利」などという言葉がありませんが)。
とはいえ、女性側にも厳しい規定がありました。離縁状を受け取らずに再婚すると、髪を剃られて実家へ戻され、仲人も罰金を科されたのです。
駆込寺という逃げ道それでも、どうしても事情があって離婚したい、だけどできないという女性には、もうひとつの道がありました。それが駆込寺です。
駆込寺に入って尼として二年間過ごせば、夫の同意がなくても離婚成立です。いわば、当時の駆込寺は家庭裁判所のような役割を果たしており、女性を保護する機能を持っていたのです。
駆込寺は、当初はどの尼寺でもその機能を持っていましたが、のちに鎌倉の東慶寺に限定されました。
女が寺に逃げ込めば、男は手出しできません。寺の門前で追いつかれそうになった場合、履いてきた下駄を寺内に投げ込めば保護が成立したとされます。
当時の寺は法的な権威を持ち、女性の逃げ場として機能していたのです。
このように、封建社会や家父長制のイメージとは裏腹に、江戸時代の結婚制度は女性の権利を守る仕組みが多くありました。持参金の保護、嫁入道具の私物扱い、三下り半の逆利用、そして駆込寺という逃げ道……。
これらを見れば、江戸の女性は意外と自由に離婚することができたといえます。当時の離婚制度は単なる家父長制を象徴する制度ではなく、男女双方の権利を調整する複雑な仕組みだったのです。
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画像:PhotoAC
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