『豊臣兄弟!』で描かれる豊臣秀吉(池松壮亮)と秀長(仲野太賀)の天下取りは、合戦だけではありません。
強大な大名を味方につけるため、二人は領地や官位を与えるだけでなく、驚くほど手厚い「接待」すなわち「もてなし」を行っていました。
今回は、その相手となった毛利家を例に、豊臣兄弟の知られざる外交戦術に迫ります。
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【豊臣兄弟!】退場が迫る蜂須賀正勝(高橋努)には息子が!志を継ぎ秀吉を支えた嫡男・家政の生涯【前編】 『豊臣兄弟!』降伏した元親を襲う残酷な悲劇…史実に見る四国攻めと秀吉・関白就任の舞台裏『豊臣兄弟!』第36回「姫若子と鬼若子」で、長宗我部元親(磯部寛)が降伏したのち、伊予は毛利家の小早川隆景(山本浩司)に与えられました。
ドラマでは紀州征伐が終了し、羽柴秀吉と秀長は、次の目標を四国征伐に定めます。そこで元親に対し、本国・土佐を安堵する代わりに、阿波・讃岐・伊予を手放すことを求めました。
これに元親は、土佐一国では到底納得できないと反発。土佐と伊予を安堵してくれれば、豊臣兄弟に従うと言ってきました。
秀長はこの元親の申し出に対し、「のむわけにはいかぬ。伊予は渡せぬ」と言い切ります。
その理由について、四国を平定した暁には伊予を毛利家に任せる。それが、毛利家が豊臣方に味方する条件なのだと、居並ぶ者たちに説明するのです。
毛利家はもともと、秀吉とは敵対関係にありました。本能寺の変の直前まで、秀吉は織田家の中国方面軍司令官として、毛利輝元(濱正悟)と直接干戈を交えていたのです。
しかし、その後、輝元は秀吉と手を結び、安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐の7カ国と、備中・伯耆西部の領有を認められ、おおよそ120万石という大大名として存続していました。
そして四国征伐後に伊予を手に入れた毛利家は、瀬戸内海西部に大きな勢力を持つことになります。もちろん、そこには豊臣兄弟の狙いがありました。
それは、毛利家が擁するいわゆる「毛利水軍」を豊臣政権のために活用することでした。
この後、九州征伐などで毛利勢は豊臣方として出陣し、毛利家は天下統一を進める秀吉にとって重要な西国大名となっていきます。
そして、この強大な勢力を有する毛利家を、秀吉・秀長の兄弟は大切にし、最大級のもてなしを行いました。
戦うだけではなかった豊臣兄弟の「接待戦術」天下統一に向けて、豊臣兄弟は戦争によって敵対する勢力を滅ぼしていただけではありません。実は、自分たちの味方に引き入れるための懐柔策も駆使していたのです。
その一つが、秀吉の関白という地位を利用した「官位による大名統制」と、驚くほど友好的な「接待戦術」でした。この二つは、まさに豊臣兄弟の重要な外交手段だったといえるでしょう。
四国平定が終了した1585年(天正13年)12月、秀吉は伊予を与えた小早川隆景と吉川元長の二人を大坂に招きました。
秀吉は二人と対面すると、まず黄金の茶室を見せます。そして連日にわたり秀長主催の茶会、秀吉主催の茶会を続けて行い、能も鑑賞させました。
毛利家を支える重臣とはいえ、隆景と元長は毛利宗家の当主ではありません。
その二人に対して、関白の秀吉と従三位中納言の秀長が家臣任せにせず、直接もてなしたのです。その内容も、当時最高級のもてなしともいえる宴会・茶会・能楽と、まさに盛りだくさんでした。
つまり豊臣兄弟は毛利家に対して、豊臣家から特別に遇されているという実感を与えようとしていたのです。
そして1588年(天正15年)には、毛利家の当主・輝元がついに上洛します。その様子については『輝元公上洛日記』に記されていますが、このときに秀長が行った接待はまさに驚きに値するものでした。
1588年7月、上洛した輝元は聚楽第で秀吉と対面、その翌日には御所に上がり、大臣になれる貴族である精華家に叙せられます。
この後、京都の秀長屋敷に赴くと、織田信雄(山脇辰哉)・徳川家康(松下洸平)・羽柴秀次(山田涼介)・宇喜多秀家・上杉景勝の精華成大名を引き連れた秀吉が現れました。
つまり秀吉は輝元に対し「貴殿も信雄・家康らと同様に、今日からはチーム秀吉の一員だよ」という演出を行ったのです。
そして9月4日には、輝元は同行していた隆景と吉川広家とともに京を離れ、秀長の居城・大和郡山を訪ねます。
驚愕の接待術秀長の驚愕の接待術は、ここからここからはじまりました。
なんと輝元一行を、秀長がたった一騎でまだ残暑の残るなかを汗だくになりながら迎えに来たのです。
『輝元公上洛日記』には、秀長が「御迎えとして大納言殿、道五十町ほど御馬をはやめられ御出向きなされそうろう」と記されており、輝元一行を迎えるため、かなりの速さで駆けつけたことが分かります。
そして翌日には、城下の秀長別邸で能の鑑賞を行いますが、最上席は輝元に譲り、秀長はそこより端の席に座しました。
翌日には秀長自らが案内して、興福寺・東大寺大仏・若草山などの奈良観光を行い、興福寺では手配した軽業師に五重塔のてっぺんで扇を広げるという芸まで披露させます。
またその後の猿沢池の畔で催された宴会では、輝元・隆景・広家だけでなく、お供の毛利家家臣全員の膳を並べ、秀長が酒を注いで回ったと伝えられています。
さらにその夜にも、秀長は輝元一行を自らの宿所に招き、「夜物語」を行いました。宴は夜遅くまで続き、翌朝にも食事が用意されたと『輝元公上洛日記』には記されています。
そして、奈良滞在中は毛利家家臣だけではなく、荷物を運ぶ人夫などの小者や馬にまで秀長自ら細かく世話を焼く手はずを整えたと、同史料には書かれているのです。
当時の秀長は、大納言の官位にありました。つまり秀吉に次ぐ豊臣家ナンバー2であり、それは天皇を除けばまさに日本国で2番目の実力者であったのです。
秀長が行った接待術は、従来の武家や公家という概念を越えた、豊臣兄弟だからできることでした。
その懇切を極めた接待は、輝元をはじめ毛利家の人々に、豊臣政権から大切に扱われているという強い印象を与えたことでしょう。
毛利家はその後も豊臣政権の重要な大名として、朝鮮出兵に毛利水軍を率いて参加します。そして関ヶ原の戦いでは輝元が西軍の総大将に推戴され、徳川家康と対峙することになりました。
豊臣兄弟の「接待戦術」。それは、強大な大名を「戦わずして豊臣政権の側に置く」ための、極めて高度な外交戦術でもあったのです。
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磯田道史著 『豊臣兄弟 天下を獲った処世術』文集新書
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