[NEWSショーマニズム宣言!]

錦織圭、全米準Vで思い出す”欧州最大”トーナメントで三連勝した日本人

 日本中が固唾をのんだ錦織圭選手の全米オープン決勝戦。惜敗したものの、グランドスラム(4大大会)の一角で優勝に手をかけた日本初の偉業は、おおいに讃えられるべきだろう。

 そこで思い出されるのが、かつて世界で日本人の名を轟かせた先人たちのこと。水泳、柔道、サッカー、野球。各ジャンルの中で、今回取り上げたいのはプロレス界から、である。この時点で真面目な読者からは「テニスの4大大会とプロレスを一緒にするな!」と、お叱りが来そうである。しかし「世の中をショーマン的視点で見ることで、ガチンコ視点で見落としがちなロマン」を探すのが小欄の趣旨。決して筆者がプロレスマニアだから…という個人的嗜好ゆえではない、とご理解いただきたい。

 さてプロレス界の偉業といえば、ほぼ力道山、馬場、猪木である。実際、いま柳澤健氏(注1)が某週刊誌で連載中の「1964年のジャイアント馬場」では、若き日の馬場がルー・テーズ(NWA)、ブルーノ・サンマルチノ(WWWF)、フレッド・ブラッシー(WWA)という時の全米3大王者に連続挑戦した偉業が描かれている。馬場が生涯、誇りにした華やかな記録である。斯様に、いかに世間的にいろいろ言われるジャンルとはいえ、アメリカ、日本、メキシコでは時に数万人を巨大な会場に集めて盛り上がるくらい人気があるのが、プロレス。しかし今回は謎と哀愁が渦巻くヨーロッパマット界の話をしたい。プロレスファンの想像をかき立てた「ハノーバー・トーナメント」と、そこで3回も優勝した日本人レスラーの話を。

 ヨーロッパで最もプロレスが盛んなドイツの秋を飾るのが、ハノーバー・トーナメント(以下HT)だ。欧州各国だけでなく、北中米、中近東、アジアからも選手が参加する国際的な祭典であり、日本からもマイティ井上、ストロング小林、鶴見五郎、木村健吾らが参戦している。昔の『ゴング』『プロレス』などの専門誌では白黒グラビアなどで小さく、地味に報じられただけで、情報の少なさが逆にファンの想像をかきたてたものだ。そのHTで1966年、1969年、1973年と三回も優勝した日本人がいた(1969年はレネ・ラサルテーズと同率ダブル優勝)。その名も、清美川。

 清美川(本名・佐藤梅之助)は1917年秋田県生まれ。力士となって最高位は東前頭筆頭。「角聖」双葉山からも金星を挙げている。1953年にプロレスに転向し、力道山がシャープ兄弟を招聘した日本プロレス旗揚げシリーズにも参戦。その後、木村政彦の国際プロレス団(旧)に移籍するも、時すでに『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』(注2)で描かれた力道山×木村戦のあと。国際プロレス団は消滅への坂道を下っていた……。そして同団体消滅後にメキシコ、アメリカ、ヨーロッパを転戦する中で、HTに三回優勝という偉業を成し遂げたのだ。しかし帰国後は華やかな活躍はなく、話題を呼んだ1974年のアントニオ猪木×ストロング小林戦をレフェリーとして裁いた姿のみ、思い出す方もいるかもしれない。その後、徐々に表舞台から姿を消し、1980年に亡くなっている。

 ……となると「マット史の影に隠れた悲運の天才レスラー」という雰囲気が漂うが、HTはテントみたいな小会場で開催され、大会会期中レスラーたちはキャンピングカーで暮らすという、きわめてサーカスチックな哀愁漂う大会だったのが実情。やはり馬場や猪木の方が、はるかに上なのである。

 13歳で渡米した錦織選手、アラフォーで世界へ出て行った清美川。今後も勝利が期待される錦織選手、プロレスファンでも知らない人が多い清美川。比較するには無理があり過ぎる2人であるが、世界を一人で戦う日本男児として、共にどこかに孤独の影が漂っているのを感じてしまう。清美川は海外転戦中に大きな不幸に見舞われてしまった(注3)。願わくば錦織選手には、これから勝ち取るであろう栄光に見合う、幸福な人生を送ってもらいたいものだ。

(注1)著書に『1976年のアントニオ猪木』など。
(注2)大宅壮一ノンフィクション賞受賞作。新潮文庫版発売中。
(注3)息子が誘拐され、殺害された。

著者プロフィール

コンテンツプロデューサー

田中ねぃ

東京都出身。早大卒後、新潮社入社。『週刊新潮』『FOCUS』を経て、現在『コミック&プロデュース事業部』部長。本業以外にプロレス、アニメ、アイドル、特撮、TV、映画などサブカルチャーに造詣が深い。DMMニュースではニュースとカルチャーを絡めたコラムを連載中。愛称は田中‟ダスティ”ねぃ

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