御嶽山噴火で脚光浴びる、もうひとつの「御岳山」怪奇伝承

平安時代から続く「御師」の集落がある稀有な山

 7年ぶりに噴火し、多大な被害をもたらした御嶽山の火山噴火。御嶽山は長野と岐阜の県境にあるが、実は東京には、別の御岳山(みたけさん)という、神秘的なスポットがある。

 東京の奥多摩に聳え、1600年の歴史を誇る御岳山。山頂の武蔵御獄神社には日本武尊が祀られ、「武蔵の国の神が天下る山」として有名な御岳山だが、「御師」と呼ばれる人々が暮らすことで知られる山でもある。

「御師」とは、特定の神社に所属し、参拝者に対して参拝や宿泊などの世話をする人たちのことで、「神への案内人」とも言われている。一方で、神社では神官として、武運長久や五穀豊穣、家内安全を祈願する役割も果たしている。その御師の歴史は古く、起源は平安時代にまで遡るという。

「元は御祈祷師を略したもので、平安時代ごろから社寺に所属する人たちに対して用いられ、後に神社の参拝の世話をする神職にも用いられるようになりました。そして彼らは神社の近くの街道沿いに集住し、宿坊を経営するなどして御師町を形成したのです」(御師の歴史に詳しいフリーライター)

 平安時代の代表的な御師とされるのが、熊野三山の熊野御師である。平安時代末期に、貴族の間で盛んになった熊野詣。その際の祈祷や宿泊の世話をしたのが熊野御師だった。

 当初は参詣のたびに一時的な契約を結んでいたのだが、次第に御師を「師」と呼び、参詣者を「檀那」と呼ぶ恒常的な師檀関係が結ばれるようになっていったという。そして、鎌倉時代には武家に、室町時代には農民にまで広まっていったといわれている。鎌倉時代から室町時代初期にかけては、伊勢・富士・松尾・三嶋・白山・大山などに御師があり、特に伊勢神宮や富士の御師が有名である。

 江戸時代に入ると、身分的には百姓と神職の中間に位置づけられ、伊勢・富士を中心に出雲・津島など多くの神社で御師制度が発達した。経済の安定と庶民の隆盛とともに、寺社詣りが信仰と遊興の側面を持ち出したことが要因といわれている。そのため御師の役割が急速に高まり、伊勢や富士では全国に檀那を持つまでに至った。

「伊勢の御師は、全国各地に派遣されるようになりました。現地の伊勢講(講=信者)の世話を行うとともに、彼らが伊勢参りに訪れた際には、自己の宿坊でこれを迎え入れて参拝の便宜を図っていたのです。そして、同様のことが各地で行われ、中世から近世にかけて、御師の間で師職(御師の職)や檀那の相続、譲渡・売買が盛んに行われるようになり、勢力の強い御師に檀那や祈祷料などが集まるようになったのです。一方で熊野御師は熊野信仰の衰退とともに衰退していきました。そして明治時代に入ると、政府主導の神祇制度が整備されたため、全国的に御師は急速に衰退していったのです」(前出・フリーライター)

江戸時代に起こった御師による信者の奪い合い

 長き歴史を歩み、急速に衰退をむかえた御師。冒頭でも記したように、その御師が今なお神への案内人として暮らし続けているのが、御岳山の頂上付近の集落だ。

 山へと誘うケーブルカーを降り立つと、静かな別天地が広がる。山の形をそのままなぞった参道の傍らには、樹齢300年を超える御神木や、樹齢600年ともいわれる天然記念物の神代ケヤキが堂々とその姿を残し、霊地というにふさわしい風景である。山頂へと続く山道を歩くこと約20、やがて家屋が点在しはじめるのだが、ここがその御師が暮らすとされる集落である。

 武蔵御嶽神社は社伝によると、第10代崇神天皇の時代(紀元前90年)に、武渟川別命(たけまなかわわけのみこと)が東国巡国し大己貴命(おおなむちのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)を祀ったのが起源とされる。

 また第12代景行天皇の時代、日本武尊が東征のため御岳山より山路を越えようとしたところ、邪神が大きな白鹿に化けて行く手を塞いだ。そこに白狼が現れ西北に導いたことで、日本武尊は難を逃れることができた。そして、白狼に「山頂の本陣に火災、盗難の守護所を置くべきだ」と命じ、それ以来、火災、盗難除けの神として崇拝されるようになった。武蔵という名は、東征を果たして御嶽に帰ってきた日本武尊が身につけていた鎧甲を岩蔵に納めたことに由来するといわれている。

 鎌倉時代には、蔵王権現像を合祀して、御獄蔵王権現と称し、有力な武将たちの信仰を集めた。畠山重忠が奉納した日本三大大鎧のひとつ赤糸威大鎧は、国宝であり社宝になっている。

 そして、江戸時代に入ると、徳川家康の命により慶長11年(1606年)に南向きだった社殿を東向きに改築し、江戸城鎮護の御社となった。社寺詣が盛んになるとともに、御獄詣は武蔵・相模を中心に関東一円に広がり、講も組織されるようになる。そして、修験の霊場としてだけでなく、農耕神としても名高く、牡鹿の肩骨を焼きその割れ目模様によって作物の出来具合を判断する、太占祭なる儀式も行われるようになった。御岳山で御師が活躍するようになったのは、この頃からといわれている。

 江戸の文人・竹村立義は、文政10年(1827年)8月、御岳山に登拝した。

「八大地蔵堂から次第にのぼれば、四方みな山にて、万山波濤のごとし。(中略)漸々にして登りて山上の御師の家ある所に至る。(中略)御師三十六坊、茶店六軒、家居なす所まで忽て要するにおよそ万八町ばかりの間、或は巌により或は坂の上等に散住す」(『御嶽山一石山紀行』)と記されており、御師の家屋が36戸あったことがわかる。

 しかしこの頃になると、繁栄を続ける御師の世界で今でいうところの「客の奪い合い」が起こり始める。秩父の三峯神社に残る『三峯神社日鑑』によると、嘉永7年(1854年)、御獄神社と三峯神社との間で信者を奪い合う争いがあったことが記されている。それによると、御嶽山の御師が三峯講の御眷属札を取り上げて持ち帰るという事件が起こったとされる。三峯神社は江戸時代に武蔵国の中で御獄神社と同等の勢力を持っていた神社であり、激しい勢力争いが行われていたようだ。

 明治時代の神仏分離により、御嶽山大権現から御嶽神社の社号に改め、昭和27年(1952年)には、武蔵御嶽神社と改めた。以降、御岳山での修験の規模は小さくなりつつあるが、御師が講を迎える体制は現在もしっかりと守り通されている。御師と講が主体となった信仰の往来が残る貴重な山と言えるのではないだろうか。

 もうひとつの御岳山には、そんな秘密が隠されているのである。

(文/龍円侍郎 Photo by Guilhem Vellut & jetalone via Flickr)

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