流行語大賞の日本エレキテル連合が一発屋と危惧される理由|ラリー遠田コラム

YouTube公式チャンネル「日本エレキテル連合の感電パラレル」より

【ラリー遠田のお笑いジャーナル】

 12月1日、「2014ユーキャン新語・流行語大賞」の表彰式が行われた。大方の予想通り、日本エレキテル連合の「ダメよ〜ダメダメ」は年間大賞に選ばれた。若手芸人が世に出るチャンスが激減しているこの時代に、逆風をはねのけて大ブームを巻き起こしたのはまさに快挙だ。

 ただ、ここで気になったのが、マスコミの報道の仕方だ。「芸人が流行語大賞を獲ると一発屋になる」というジンクスがあるから、日本エレキテル連合もこれからは危ないのではないか、ということをどのメディアもやたらと言いたがる。記者会見の席でも、本人たちにはそういう質問がぶつけられた。

 個人的には、もうそろそろ、そういうのはやめにしませんか、と思う。本連載で以前にも書いたが、日本エレキテル連合は従来の意味での一発屋芸人の枠に当てはまるような存在ではない。その図式に何でもかんでも当てはめて処理しようとするのは安直だ。

日本エレキテル連合は本当に「一発屋予備軍」なのか?

 また、「流行語大賞を獲ると一発屋になる」というのは事実として間違っている。過去の受賞者には所ジョージ、高田純次、ダチョウ倶楽部といった大物たちも名を連ねている。流行語大賞を獲ると一発屋になるというのは間違いで、流行語大賞を獲った人の中で一発屋になってしまう人もいる、というのが正しいのだ。

 マスコミは世間の写し鏡である。マスコミが日本エレキテル連合を一発屋予備軍と見なすような報道をするのは、世間が彼女たちを一発屋予備軍と見ているという証でもある。なぜそうなってしまうのか。その答えを探るには、そもそも流行語大賞とは何なのか、ということからさかのぼって考えてみなければならない。

流行語大賞は“祝祭”であり“葬儀”である

 流行語大賞は、一見すると華やかなイベントという感じがする。1年を振り返り、特に活躍した人や流行したものを取り上げて、それを表彰するのだから。基本的には、明るくおめでたいお祝いのイベントであり、晴れの舞台であると言える。

 だが、物事にはオモテがあればウラがある。流行とは「流れ来る」ものであると同時に、「流れ去る」ものでもあるのだ。1年を振り返って流行ったものを取り上げるということは、必然的にピークが過ぎたものを倉庫から取り出して再び愛でる、ということになる。いわば、流行語大賞とは、流行ったものを讃える「祝祭」であると同時に、それを棺に収めて、大勢で見送る「葬儀」でもあるのだ。

 流行語大賞を話題にするときの楽しさの中には、幾分かの残酷さが含まれている。流行は誰もいないところで勝手に生まれるものではない。すべての流行は、人が作って、人が終わらせるのだ。人間には、本能的に何かを祭り上げたい欲望がある。一方、何かを引きずり下ろしたいという残酷な欲望も持っている。その両方を満たすのが流行語大賞という華やかで無慈悲な儀式なのだ。

「芸人が流行語大賞を獲ると一発屋になる」というジンクスがまことしやかに語られるのは、それが事実だからではない。正確には、人々の心の底に「流行語大賞を獲った芸人には一発屋になってほしい」という願望があり、それを反映してそのような神話が作られた、と考えるべきだろう。

 ただ、一お笑いファンとしては、そんな人々の欲望に乗っかっただけの安易な報道姿勢には疑問がある。最近、バラエティ番組でも一発屋芸人に関連した企画がやたらと目に付く。ピーク時の年収は○○円で、現在は家賃○○円のアパートに住んでいる、とか。最初は目新しかったかもしれないが、いまやどんな金額を聞いても「ふーん」としか思えないくらい、そういう企画はありふれたものになってしまった。

 安易な一発屋の取り上げ方には、そろそろ限界が来ているのではないだろうか。何でもかんでも「一発屋」として処理してしまうのは、スポーツ中継をすべて「感動すべきもの」として処理するのと同じくらい違和感がある。その安易なつくりを、少し見直してみてはどうだろう。お笑い芸人という人たちの本当の面白さは、そこにはないのだから。

ラリー遠田
東京大学文学部卒業。編集・ライター、お笑い評論家として多方面で活動。お笑いムック『コメ旬』(キネマ旬報社)の編集長を務める。主な著書に『バカだと思われないための文章術』(学研)、『この芸人を見よ!1・2』(サイゾー)、『M-1戦国史』(メディアファクトリー新書)がある
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