[架神恭介の「よいこのサブカル論」]

ろくでなし子×架神恭介スペシャル対談「女性器と仏教の類似性について」

まん中の創作的重要性とは

 自身のまん中(女性器)の3Dプリンター用データを頒布した罪で係争中のろくでなし子さん。前回は彼女と市原えつこさんの炎上に関する対談を記事にしましたが、今回は彼女の芸術行為に関して考えてみたいと思います。

 といっても、彼女のあれがアートかそうでないかとか、犯罪性がどうのこうのには興味がないので、今回はただ一点、「まん中の創作的重要性」にテーマを絞ります。

 ろくでなし子さんの著書『私の体がワイセツ?!』にも収録されている裁判での意見陳述書によると、ろくでなし子さんは、自分の体の一部にすぎない「●●●」が日本では悪いもの、汚らわしいものとして嫌われ、「●●●」という三文字を口にするだけでも怒られたり、おそれられたりするのか疑問に思い、この活動をしてきたと言います。

 現にこの記事でも様々な大人の理由で、「その三文字」を使うことが許されず、筆者はいま「まん中」や「●●●」と表記せざるを得ない現状があります。

 女性器は「手足と同じ」と語り、まん中への特別視に対して疑問を呈する彼女の意見は、少なくとも生物学的には議論の余地なく正論だと思います。ですが一方で、まん中が特別視されているというその事実は、たとえば物語などの創作においては重要な意味を持ってきます。「その三文字」それ自体が持つ力というものがあるのです(ですので、読者の方はぜひ「まん中」を「その三文字」に置き換えて読んで下さい)。

 この点について、以前よりろくでなし子さんの考えをお聞きしたいと思っていたのですが、いま、彼女は30分5000円でのレンタルサービスを行っており、丁度都合が良いのでこちらを利用して対談を行うことにしました。

ろくでなし子レンタル

 なお、レンタルすると、サービスで似顔絵を描いてもらえます。筆者も描いてもらいました。

まん中を崇める差別

──僕たち、男の子はおっぱいやまん中に対して、「おっぱい!」「まん中!」とワッショイな気持ちになります。ですが、ろくでなし子さんの仰るように、それらをただの肉体の一部と考えてしまうと、そういったワッショイな気持ちが失われてしまうのではないかという危惧もあるのです。たとえば常に裸で生活している文化圏の女性のおっぱいを見ても、僕はあまりワッショイできないのです。

ろくでなし子「それは男性の見方ですね~」

──と、言われますと?

ろくでなし子「セックスって大笑いしながらできないじゃないですか。隠微というかコソコソしながらするのが楽しかったり、興奮するじゃないですか。私がやってることはまん中をバカバカしく笑わせるようなものにしているので、そういった隠微さからは離れていってますよね。それで女性の気持ちは救えると思うんですけど、男性的に見たら、いやいや……と思う気持ちも多少分かります」

ろくでなし子さんのまん中アート。隠微からは程遠い

──女性が救われるというのはどういうことでしょうか?

ろくでなし子「男性は気付かないと思うんですけど、女性は常にモノとして見られてるんですよ。痴漢とか、男性もされる場合もありますけど、女性がほとんどです。全くの他人の女性の身体を触るなんて、モノとしてしか見られてないんですよね。キレイだとかカワイイだとかブスだとか見た目ですごく消費されますし。一方で、男性がそういう評価のされ方をすることは比較的少ないですよね。消費対象物として見られて、歳を取って行ったりすると、人間として見られなくなっていく……『ババア』になっちゃって。女ってのはそういう悲しい生き物なんですよ」

──確かに、まん中も女子高生のまん中と婆さんのまん中では全然意味合いが違ってきますね。

ろくでなし子「でも、同じ人間でしょう、男と女って。まん中に対してすごく崇め奉ったり神聖視したり、逆に蔑んだり、汚いとか、臭いとか……対等じゃないんですよ。上に持ち上げたり下に蔑んだりするんじゃなくて、普通の目線……男性器と同じくらいの目線で見るのが、私としては平等だと思うんですけど」

まん中は仏教と似ている!

──それを聞いて「まん中と似ているな」と思ったのが日本仏教です。僕も仏教はよく分からんままに尊んだり恐れたりする必要はない、とかねがね主張してきました。仏教は本来「巧いこと生きるためのメソッド」だったのですが、日本に伝来した時には既によく分からない呪術的なものとなっていました。本来は墓石を金属バットで殴り壊そうが、卒塔婆を海に投げ捨てようが仏罰なんてありえないんですが、われわれが仏教をよく分からんままに「なんだか尊いもの」と考えた反動で、「尊いものを害するとバチが当たる」という呪いが生まれたんです。救いと呪いは表裏一体なんですよね。無闇に持ち上げるのも決していいことじゃない。

ろくでなし子「結局同じなんですよね。差別してることに変わらない」

──ただですね。そうして無闇に崇め奉ることも創作のジャンルでは評価されうるんですよね。よく分からない尊さや、よく分からない呪いは物語の中では機能し、輝くんです。斎戒中の妻とセックスしたらアリにチンコを噛まれて死んだ仏教説話が『日本霊異記』にありますけど、仏教的にはどう考えてもムチャクチャですが、話としては面白い。

ろくでなし子「信仰心もそういう物語の中から生まれたりしますよね」

──僕は無闇に仏教を尊んだり恐れたりすべきではないと思う一方で、実際にそういう信仰心を持っている人を否定することもできないんですよね。そういう形の信仰で幸せになれるなら、それはそれでその人の生き方だとも思うし。まん中も似ていて、どこか崇め奉りたくなるものがあるんですよね。……まん中を素晴らしいものとして扱っている物語はどう思われますか?

ろくでなし子「個人的には悲しくなるんですよね。そういうふうに特別扱いされると対等な人間として見られていない気がして。私は公平なことが大好きなんですよ。上下関係とかも苦手で……」

啓蒙活動ではない!

──例えばですが……。僕はバトル小説なども書くのですが、巨大な女性が敵を次々とまん中の中に収納していって戦う話なども書くんです。でも、本当にまん中を肉体の一部として認識してしまうと、「ああ、まん中? 穴が空いてるからそりゃ入るよね、物理的に」となってしまって、そういった表現からパワーが奪われてしまう。ろくでなし子さんの主張されるように、皆がまん中を単なる肉体の一部と認識するようになるとそうなってしまうのですが、この点はどうお考えですか?

ろくでなし子「うーん……。皆が思うようになる、っていうのがちょっと違うかな? 私が一番言いたいのは、『こんなことで逮捕するのはおかしい』ってことなんです。色んな人の色んな考えがあるのは当然で、まん中が見たくない人は見なきゃいいし、●●●って言えない女性がいることも分かるし、そっちは否定しないんですよ。私は手足と同じ感覚で、それがなんでダメなんだって言ってるだけなんで、『全員が私と同じ通りに思え』なんて思ってないわけです」

──えっ、そうだったんですか!? 社会がみんな、まん中が手足と同じ感覚になって欲しい、と思ってるわけではないんですか??

ろくでなし子「ない、ない。私の主張を過大に捉えすぎていて、『俺達のまん中ワッショイ権利を侵害している!』みたいに思われるのは本当に心外です。私はこう思うけどあなたはそれでいいんじゃないですか、でいいんじゃないかって。逮捕されちゃったから、こんなに大事になっちゃったんですけど、私は最初からずっとそう言ってるんです」

──僕も誤解していました。ろくでなし子さんは世の中のまん中の認識を改めるべく啓蒙活動をしているのかと。では、今のまん中を崇め奉る風潮を、そこまで強く是正したいわけでもない?

ろくでなし子「それで楽になる人はいると思うんですよ。実際、●●●って言えるようになって、楽になりました、っていう女性もいるので」

──「秘所」が、気軽な「●●●」になることで、消費対象物としての「女性」から解放される、という感じですか。

ろくでなし子「楽になれる人がいるんなら、私みたいに言う人が一人いてもいいんじゃないの、って。全員をみんなそういうふうにしたいわけじゃないんですよ。是正っていうか、いったんちょっと考えてみようよ、っていう感じですかね。あなたの思い込みをちょっと考えてみようか、っていう。アートってそういうものだと思うんですよ。価値基準みたいなのを考えさせるもの。だから、『問題提起』ですね。フェミニスト活動みたいに言われるのもちょっと違うと思ってて、フェミの人たちは啓蒙したいじゃないですか。私、啓蒙したいわけでもないんですよ。問題提起なんです」

──僕は仏教に対しては、やや啓蒙寄りではあります。先程の質問ですけれど、僕も同じことなんですよね。『孔雀王』という漫画をご存じですか? 真言宗の密教僧が手からビームを出して戦う漫画で、やっぱり仏教的にはありえないんですけど、あのケレン味は仏教へのよく分からない尊敬と呪いにより成立してるんです。僕の言うように、仏教を無闇に崇め奉らない世界になったら『孔雀王』はどうすんの?って言われたら、僕も困っちゃう。

ろくでなし子「そうそう、それなんですよ。その作品の事自体は否定しないんですよね」

──いやー、お互い困った立場ですね(笑)

 ***

 まん中を「手足と同じ」と語るろくでなし子さん。しかし、この記事でも実際に、「まん中」「●●●」などと書かざるを得ない現実があります。その議論を扱ったテキストにおいてすら表記が不可能ということからも、ろくでなし子さんの問題提起の重要性を感じます。議論をしようにも、議論のための言葉がそもそも使えないという。

 語ることすら許されぬまん中は確かなパワーを持っており、ゆえに魅力的であり、ゆえに問題を孕んでいます。果たして僕たちはまん中に対して、どのように向き合うべきなのでしょうか。

著者プロフィール

作家

架神恭介

広島県出身。早稲田大学第一文学部卒業。『戦闘破壊学園ダンゲロス』で第3回講談社BOX新人賞を受賞し、小説家デビュー。漫画原作や動画制作、パンクロックなど多岐に活動。近著に『仁義なきキリスト教史』(筑摩書房)

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