阿佐田哲也、渥美清こそホンモノの不良! ドン底から昇りつめた昭和の超大物たち

日刊大衆

阿佐田哲也、渥美清こそホンモノの不良! ドン底から昇りつめた昭和の超大物たち

昭和の時代には芸能界や政界、はては文壇まで、「元ヤン」どころではない「ホンモノの不良」が存在していた。 先日、70~80年代の「伝説のワル」たちの武勇伝やおもしろエピソード、また現在の姿などもふくめて徹底取材し一挙出ししたムック「有名人101人のタブーなヤンキー 女ツッパリ マル秘伝説」(双葉社)が発売となった。 今回はその中に掲載されている特集記事「ドン底から昇りつめた大物たち」をお届けする。

極端なほどに私生活を見せなかった国民的スター


平成の世になってすでに四半世紀。ヤンキー絶滅が叫ばれてひさしい時代だが、芸能界やスポーツ界、政界を見渡すと、まだ驚くほど元ヤンキー出身者が活躍していることがわかる。

2000人を擁する暴走族・ブラックエンペラー元総長から人気俳優となった宇梶剛士、ヤンキーの聖地・大阪は羽曳野出身、球界の問題児からメジャーリーグで活躍する日本のエースとなったダルビッシュ有、ヤンキー先生として注目され、文部科学大臣政務官までのぼりつめた義家弘介、等々……恵まれない環境で育ちながら、叩き上げて華やかな舞台で成功を収めた立身出世の物語は、いつの世も人々を惹きつけてやまないのかもしれない。

だが昭和の時代には芸能界や政界、はては文壇にまで、「元ヤン」どころではないホンモノの不良が存在していた。一度は盃をかわしながら、裏社会を飛び出して表舞台で成功をおさめた猛者たちである。たしかに当時は現代とくらべ、芸能界と暴力団との関わりのいわゆる「コンプライアンス」が緩かったとはいえるだろう。とはいえ裏稼業出身というハンデを負いながら、世間を認めさせたその破格さはやはり平成の世の比ではない。

『男はつらいよ』シリーズの「寅さん」として親しまれた渥美清。のちに国民栄誉賞を授与したこの国民的俳優が、芸能界デビュー前にあるヤクザの一家に身を寄せていたことは、あまり知られていない事実かもしれない。

東京の上野で生まれた渥美は、中学に入ると学校をドロップアウトして街にたむろすようになる。20人ほどの若者を束ねた「フーテン一家」のリーダーとして、荒くれ者が集まる上野の街を肩で風を切って歩いていたという。
「わたくし、もうこのころから学校には全然いかない。不良の群れにはいりまして。けんかだと聞くと乗り物もないのに遠くまで歩いて出かけておりました。腕っ節が強いというわけじゃございませんが、要するにそういうことが好きだったのでございます」(『渥美清 わがフーテン人生』)

渥美がこの独特の香具師(やし)口調や、『男はつらいよ』で見せる歯切れのいい啖呵をおぼえたのも上野の街だった。戦後、焼け野原となった上野で渥美は担ぎ屋としてヤミ米を扱い、テキ屋稼業に没頭した。あるヤクザ一家に身を寄せていたのはこの頃のことだ。

国民的なスターになってからの渥美は極端に私生活を見せないことで知られ、親しい友人にさえ当時のことを語ることはなかった。だがふとした時、昔の顔が垣間見える瞬間があったという。
「『男はつらいよ』のロケといえば、こんな逸話もありました。 ある地方で夜のロケをしていたとき、現場のまわりに暴走族が集まってきて、バリバリとものすごい騒音を出すもんだから、撮影にならなくなっちゃった。 (中略)もう誰が行っても止まらないぞ。となったところで、突然、渥美さんがスーッと出ていって、リーダー格みたいなやつの耳元で何かを言ったんです。すると、そのリーダー格の男は、「おすっ!」なんて言って、すぐに仲間を引き上げさせてしまった。現場にいたスタッフやキャストは全員、目を丸くして、「おい、一言で追い返しちゃったよ」って」(笹野高史『日本一の脇役が語る人生の美学 待機晩成』)

暴走族たちが気圧(けおされたのは、渥美が見せた「裏の顔」であることは言うまでもないだろう。
終戦後の裏社会にもぐった不良少年が直木賞作家に

渥美がテキ屋稼業でヤクザに身を寄せていた同時期、同じ上野の闇市界隈を伝説の「黒シャツ」を着てうろついていた少年がいた。のちに"雀聖"と呼ばれた阿佐田哲也その人である。
『麻雀放浪記』の作者として名を残す直木賞作家・阿佐田も、戦時下の中学時代にドロップアウトし、終戦とともに裏社会にもぐりこんだ不良少年の一人だった。

「敗戦直後の上野で、アベック専門の恐喝をやった。この手は、まっ先にとはいわないが、私どものグループがかなり早い時期にはじめたと思う」(色川武大『泥』)

当時の阿佐田は賭場では群れをなすことをせず、「黒シャツ」がトレードマークである麻雀放浪記の主人公「坊や哲」そのままの一匹狼であり、ヤクザの「代打ち」としての格は、関東でトップクラスに数えられた。この「代打ち」ランキングに10代で入っていたのは阿佐田ただ一人だったと言われている。

阿佐田はその後、裏社会から足を洗い、本名の色川武大として三島由紀夫に絶賛されて純文学作家デビュー、阿佐田哲也名義で『麻雀放浪記』を大ヒットさせ麻雀ブームの牽引役となるが、その経験はすべてこの不良少年時代に培ったものであった。

同じ戦後の混乱期、場所を移してヤクザがはびこる新宿歌舞伎町。
この場所で「中央線の鬼」と恐れられた男が、『遠くに行きたい』等のヒット曲で知られるジェリー藤尾である。人懐っこい笑顔で数々の映画にも出演してきた人気スターは、戦後の新宿で「ヤクザさえ道をゆずる」と言われた愚連隊『三声会』の用心棒だった。

ハーフとして差別を受けながら育ち、13才の時に目の前で母親が自殺するという壮絶な体験をした藤尾は、高校をドロップアウトして新宿の街をうろつきだす。そんな彼を受け入れたのが、「歌舞伎町の暴力地図を塗り替えた」と言われる伝説の愚連隊『三声会』だったのだ。藤尾はその腕っぷしを買われて17才にして会長・三木恢のボディーガードとなり、暴力団との縄張り争いで抗争に明け暮れた。

「当時の新宿はね、それぞれヤクザの縄張りがあったんですけど、愚連隊はそんなこと無関係。その組がみかじめ料をとっている酒場に乗り込んで行って、『誰の縄張りだろうと関係ねえ』と、逆に『三声会』のシマにしてしまうんだから」(ジェリー藤尾『ともあれ、人生は美しい』)

のちに出演した黒澤明『用心棒』では片腕をスパっと斬られてしまうシーンを演じた藤尾だったが、実際の修羅場では刃物相手でも返り討ちにしていた。「向こうはチェーンを持ってる。
カミソリ二枚刃は持ってる。マフラーを腕に巻く。ヤッパを持って飛びかかってきたら、マフラーを巻いたここで避ける。(略)怖いお兄さんが飛びかかってきたのをさっとよけて、羽交い締めにしておいて、横から肋骨に強烈な蹴りを入れたら、ドサッと僕の前で崩れ落ちた」(同)

身長172㎝、体重65㎏。体格に恵まれているとは言いがたいが、抜群の運動神経と度胸で新宿中に名を轟かせた藤尾は、人気スターとなってからもヤクザがらみの事件に巻き込まれている。『銀座の恋の物語』の撮影中、ドスを持ったヤクザに絡まれた藤尾は、返り討ちにする。だが藤尾は逆に、過剰防衛だとして罰金刑を言い渡されてしまう。相手はなんと肋骨3本と前歯4本をへし折られ、ひん死の状態だったという。「芸能人最強伝説」を地で行く、本物のアウトローである。

そんなジェリーもイメージ商売の芸能界では暴力色を押し出さないようにしていたが、「元暴力団構成員」という肩書きを最期まではばかることなく公言していた人物がいた。
「私は単なる不良だったが、それを真人間にし、更生させてくれたのは稲川会長だ」

発言の主は、元自由民主党副幹事長にして元稲川会系組員、ハマコーこと浜田幸一である。
従来の不良のイメージを一新した男のダンディズム

幼少時代より地元千葉県のヤクザ組織に出入りしていたハマコーは、物怖じしない性格で組織トップである稲川会初代会長の稲川聖城に気に入られ、生涯心酔していた。24才の時に抗争で相手組織の組員を刺して傷害罪で収監、出所した時にも稲川を頼っている。ハマコーは稲川から"昭和の最大のフィクサー"児玉誉士夫を紹介され、運転手となったことで政治家へのきっかけをつかむ。持ち前のバイタリティで千葉県議をへて、61年には衆議院初当選をはたす。

この「政界の暴れん坊」時代こそ、ハマコーのハマコーたる由縁かもしれない。衆議院では議長を引っ張り回し、自民党40日抗争ではバリケードを前に「相手になってやるからかかってこい!」と椅子を投げ飛ばす。4億6千万円をラスベガスで溶かしたと言われるカジノスキャンダルで辞職に追いこまれるも、3年後にはすぐ返り咲き、ついには衆議院予算委員長にまで上り詰めた。だが共産党・宮本議長を「殺人者」を呼ばわりしてすぐに失職。

まさにジェットコースターさながらの議員人生だが、93年に引退し、タレントに転身してからも人は衰えなかった。ハマコーが政界でもテレビ界でも重宝されたのは、どれだけ悪名が高くても、近所のヤンチャ坊主のようにどこか憎めないキャラクターのおかげだろう。だが総工費1兆円を越えた木更津アクアラインを通したように、巨額の予算を手段を選ばないネゴシエーションで引っぱってくる強引な手腕は強面なヤクザそのものだった。

だが元ヤクザ出身のスターと言えば、真打ちにはやはり安藤組組長にして映画スター・安藤昇その人以外に考えられないだろう。
安藤は少年時代から手のつけられない不良であると同時に、独特の美学と男気を胸に秘めていた。

少年院時代に一念発起して予科練の試験に合格、志願したのは伏龍特攻隊、つまり人間魚雷。しかし出兵することなく、敗戦はそのわずか2ヶ月後に訪れた。失意の安藤は焼け野原となった渋谷で、戦争でバラバラになった仲間たちを集め、抗争に明け暮れることになる。闇市を取り仕切っていた中国人や在日朝鮮人と抗争を重ね、新宿のテキヤ系一家ともめれば自動小銃で殴り込みをかける安藤は、ヤクザにも一目おかれる存在となっていく。

そして1952年、「東興業=安藤組」を発足。"伝説の喧嘩師"花形敬ら500人をこす舎弟を擁して勢力を伸ばし、数々の映画や小説の題材となっているその伝説については、もはや言を待たないかもしれない。

「ドスを持つならハジキを持て。ダボシャツを着るならスーツを着ろ。 指詰め、クスリ、入れ墨は厳禁とす」「警察官すら安藤組のバッヂをほしがった」という安藤の魅力とは、従来のヤクザのイメージを一新したギャング映画さながらのダンディズムにあった。39年に安藤組を解散、映画界に転身してからもそのカリスマ性は失われるどころか輝きをおびていく。

安藤は松竹から俳優として三顧の礼で迎えられ、契約金2000万円、出演料1本500万円で契約。当時のトップスターの岩下志麻でさえ1本250万円だったといえば、その扱いの破格さがわかるかもしれない。自叙伝を映画化した『血と掟』でデビュー以来、『男の顔は履歴書』『やくざ非情史』シリーズなど主演映画は58本、若者を魅了し時代の寵児となった。愚連隊のリーダーから、左スカーフェイス頰に傷をもつ映画スターへ。裏稼業から他業種に転身した人間は数いれど、ここまで華麗に成功した人間は、洋の東西を見回しても安藤をおいて他にいないだろう。

ともあれ――俳優であれ政治家であれ作家であれ――時代をこえてアウトローたちが我々を惹きつけるのは、そこに一本の筋=美学がブレずに流れているからだろう。
安藤昇のこの有名なセリフは、そのことを見事にあらわしている。
「ヤクザは辞めたが、漢(おとこ)は辞めてねえ」

ヤクザだろうと堅気だろうと、男の意地を忘れずに、男で生きて男で死ぬ。今、男らしさが失われてしまった時代だからこそ、彼らが持っていたむせかえるような俠気(おとこぎ)がまた求められているのかもしれない。



その他にも芸能人、スポーツ選手らの成り上がり伝説を紹介したムック「ヤブーなヤンキー101人」絶賛発売中!

「阿佐田哲也、渥美清こそホンモノの不良! ドン底から昇りつめた昭和の超大物たち」のページです。デイリーニュースオンラインは、エンタメなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る