最大の皮肉! 「手配写真」のシステムを作ったひとが、日本初の指名手配犯だってほんと? (2/2ページ)

学生の窓口

その後は「人民の権利を保護する」をキャッチフレーズに司法制度の土台を確立、悪人を取り締まるのと同時に「罪を憎んで人を憎まず」の精神から「監獄則および監獄図式」を発令。いまでいう刑務所での規則にあたり、

・まじめに作業した者には工銭(=給料)を支払う

・刑務所内に病院を新設する

と人間味あふれる内容もあれば、

・逃亡したらすぐに捕まえられるように、あらかじめ写真を撮っておく

と、性善説?性悪説?の両面を備えていた。この写真こそが、日本の元祖・手配写真である。

■法に守られなかった「法の番人」

順調に思えた江藤の人生は、1873年に一変する。よりにもよって政府相手に暴動を起こしてしまうのです。江戸幕府から切り替わったばかりの明治政府は文字通り混乱の毎日で、激しい意見の対立など朝飯前、意見が通らなかった江藤は、西郷隆盛らとともに職を辞し佐賀に戻りました。ところが、江藤を待ち受けていたのは不満をもった士族たちで、最初はなだめていたものの引っ込みがつかなくなり、ついに反乱へと発展します。これが1874年の佐賀の役である。

悪い流れは変わらないもので、1ヶ月ほどで敗退……応援を請うため江藤は薩摩や土佐を巡るがこれも空振り。今の高知県で捕まってしまいました。このとき、決め手になったのが「手配書」で、つまりは自分の作ったシステムによって、逮捕されてしまったのです。

東京で裁判にかけられることを望んだが、ろくな審議もされずその日のうちに死刑が言い渡され、江藤はその生涯を閉じる。彼が作り出した「手配写真」は機能したようだが、肝心の「法」はどこ吹く風か。江藤の理想は先進的すぎたようです。

■まとめ

 ・「手配写真」を作り出したのは、江藤新平

 ・39歳で司法卿(しほうきょう)に就任。日本の「法」の祖と呼べる人物

 ・意見の対立を理由に辞職、佐賀に戻って暴動を起こす

 ・手配書によって逮捕された、日本初の指名手配犯でもある…

「最大の皮肉! 「手配写真」のシステムを作ったひとが、日本初の指名手配犯だってほんと?」のページです。デイリーニュースオンラインは、衝撃歴史法律カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る