江戸時代の忍者は、秘密の存在ではなかったって本当?
外国人にも人気の高い「忍者」。優れた身体能力と知識を持ちながらも正体は「不明」が定番だが、江戸時代には旗本(はたもと)として扱われ、住んでいる場所もはっきりした「公然の職業」だったのはご存じだろうか?
8代将軍・吉宗率いる忍者集団=御庭番(おにわばん)は、ライバルである尾張(おわり)家と張り合うための「スパイ」だったが、吉宗政権が安定するにつれ「武士」化し、幕府に仕える「誰もが知っている」公務員となってゆく。やがて、優れた能力や豊富な知識は飢饉(ききん)対策や外交に使われ、スーパー「何でも屋」へと変わっていったのだ。
■職業「公務員」、肩書きは「忍者」
徳川家康から始まる江戸時代は、15代・慶喜(よしのぶ)までのおよそ300年間続いたが、元祖・徳川の血脈は7代・家継(いえつぐ)まで。時代劇で「暴れん坊」として知られる8代・吉宗(よしむね)は紀州(きしゅう)藩の出身で、徳川家・初の養子であった。御三家(ごさんけ)で知られる親戚は、規模によって、
尾張藩
紀州藩
水戸藩
の順に格付けされていたため、吉宗の将軍就任は大抜擢であり、同時に格上である尾張藩との摩擦も大きかった。そのため、密かに情報を集める忍者集団・薬込役が存在したが、将軍就任をきっかけに、その一部が吉宗直属の御庭番となった。尾張藩から恨みを買うかたちで出世しただけに、忍者集団で対抗しようと準備していたのだ。
ところが、その後の尾張藩は弱体化…吉宗政権も盤石となり、御庭番は本来の目的を失う。秘密にしておく必要もなくなったため、ほかの武士と同様にフツウの公務員と化し、なかには旗本(はたもと)に出世し、どうどうと屋敷を構える者も誕生する。いまでいえば名刺に「忍者」と書いてあるようなもので、「影」どころか誰もが知っている公然の存在になっていたのだ。
■飢饉、外国船、何でも引き受けます
その後の御庭番は、さらに「忍者」らしくないものへと変わってゆく。飢饉が起きれば食料対策、外国船が来れば外務省と、豊富な知識を買われて「スーパー何でも屋」を命じられていたのだ。
江戸時代には四大飢饉と呼ばれる食料難があり、吉宗が将軍を務めていた1732年には享保(きょうほう)の大飢饉が起きた。すると吉宗は、全国の情報を集めるのと同時に、代用食集めを御庭番に命じたのだ。
忍者が食料集め?と違和感を感じるひとも多いだろう。だが、情報のプロであり、さまざまな知識を持ったエリート集団でもある御庭番は、災害対策にはうってつけの存在でもある。やがては「農業のプロ」をスカウトするにまで発展し、サツマイモを普及させた青木昆陽(こんよう)らも、御庭番によって活躍の場を得たのだ。
江戸後期になると、御庭番は「外務省」の役目も果たし、情報収集や防衛にも力を発揮する。諸外国が日本海に現れるようになると、新潟に砲台の設置を提案するが、予算不足で不可能とわかると砂丘に4万本あまりの黒松を植え、外国船に内情を見せないようにと「スクリーン」を作ってしまう。ポケットマネーでおこなったというから、その使命感たるや恐れ入る。
間宮海峡を発見した探検家として知られる間宮林蔵(りんぞう)も、もとをたどれば農民で、御庭番にスカウトされ隠密として活躍した人物である。もちろん単なる「探検」ではなく、背景にはロシアとの微妙な関係があったのはいうまでもない。
間宮が活躍したのは1800年代、つまり御庭番は50年以上も活躍したことの証である。公然の職業と聞くと少々残念な気もするが、日本の歴史に忍者が深く関与していたと知ると、教科書の読み方も変わってくるだろう。
■まとめ
・8代将軍・吉宗が率いる御庭番は、職業バレOKな忍者集団だった
・尾張藩対策が目的だったが、当の尾張藩が弱体化して仕事がなくなった…
・情報収集能力を活かし、飢饉や外国対策で活躍した