実際はやりたい放題! 水戸黄門はド級の「アナーキー」だったってほんと?

水戸の黄門様・水戸光圀(みつくに)と言えば、日本に暮らしていれば誰もが知っている有名人、勧善懲悪(かんぜんちょうあく)の代名詞とも言えます。
しかし、実際にはとんでもない変わり者で、それなりの立場にいながらも、やりたい放題した結果、藩を財政難に陥れてしまうなど、アナーキーな人物だったのです。
■生類憐みの令を批判する
江戸時代において天下の悪法と呼ばれたもの言えば、徳川五代将軍綱吉(つなよし)の「生類憐(しょうるいあわれ)みの令」です。それは、生きとし生けるものすべてを大事にしましょう、といったちょっと極端な内容のものでした。民衆、なかでも特に武士階級からは猛烈に批判されましたが、それでも綱吉は曲げません。
なぜなら、この生類憐みの令の真の目的が、動物を守ることではなく、命を奪うということが罪悪であると認識させるための、いわば人々の意識改革だったのです。しかし、戦国時代からさほど時間が経っていないこともあり、浸透はむずかしいものでした。この先駆的な考え方は、江戸時代には早すぎたのでしょう。
さて、この嫌われ者の将軍へ、光圀は犬の毛皮を献上します。そうです、真っ向から批判したのです。いくら徳川に連なる家の者とはいえ、相手は将軍。ふつうならばできることではありません。
じつは、綱吉が将軍になれたのも光圀のおかげという、綱吉にとっては微妙な側面がありました。子どもがいなかった四代将軍徳川家綱が没した際、綱吉を推した人物こそ光圀なのです。
綱吉は、若くから学問に親しむ秀才でしたが、誰ひとりとして将来将軍になるとは思っていませんでした。そんななか、次期将軍には将軍家に最も近い血縁である綱吉がふさわしいと、光圀は主張し、認められたのです。
そんな理由もあって、光圀は幕府に対してかなり自由にモノが言えたのかもしれません。そしてこの毛皮を送り付けたという行動は、生類憐みの令に苦しめられた民衆にとっては、とても痛快なものだったことでしょう。
■歴史にハマり、藩を財政難に陥れる
若いころの光圀はとんでもない不良でした。刀の切れ味を試すために人を斬ってみたり、遊郭(ゆうかく)に入り浸ったり…家康の直孫のくせにこの素行、嘆かわしいことです。
そんな彼の人生を変えたのは、司馬遷(しばせん)の「史記」伯夷・叔斉(はくい・しゅくせい)伝でした。これに大変感銘を受け、光圀は学問を重んじ大日本史の編纂をはじめます。大日本史の編纂は、1657年からはじまり1906年、つまり明治時代に完成します。実に250年という長い歳月をかけ、水戸徳川家の事業として、代々の当主に受け継がれ完成させた大事業でした。
しかし、この事業には大変な資金が必要でした。これにより水戸藩は光圀時代に財政悪化を招き、八公二民……つまり、領民の稼ぎの8割近くを税として藩に徴収されてしまうという、超過酷な重税をかけざるを得ない状況に陥ってしまいました。
水戸藩では、領内の百姓の逃散が相次いだというのもうなづける話です。
光圀の学問振興は、のちに「水戸学」というひとつの考え方を生み出します。これは「明治維新」のいしづえとなる尊王攘夷(そんのうじょうい)運動に大きく影響を与え、徳川に連なる光圀が、倒幕側を鼓舞させるような学問の基礎を生み出してしまうという皮肉な結果となります。
ちなみに隠居後の光圀は、水戸藩にて田畑を耕し、税を収めたという話が残っています。
■まとめ
・ドラマの温厚なイメージに反し、本物の水戸黄門は「やりたい放題」のアナーキー
・生類憐れみの令を批判するために、犬の毛皮を将軍に送りつけた
・学問に力を入れすぎて財政難……税率80%と、とんでもない重税を課していた
(沼田 有希/ガリレオワークス)